名前 | 石毛博史(イシゲヒロシ) |
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生年月日 | 1970年7月13日 |
国 | 日本 |
出身 | 千葉県銚子市 |
プロフィール | 小学校4年生の時から野球クラブに入り、銚子五中野球部では2年の秋からエース。3年の夏の千葉県大会で3位。銚子高に入学し、1年の夏よりエースを務める。2年夏は、千葉県予選準決勝で敗退し甲子園出場経験なし。
1988年ドラフト外で巨人に入団。1990年イースタンリーグで9勝5敗4セーブをあげ、1991年一軍に昇格。速球を武器にリリーフエースに成長。1993年36セーブポイントで最優秀救援投手。1994年も2年連続となる最多セーブを挙げ、日本一に貢献。 1997年近鉄に移籍。2000年、チーム2位の46試合登板。2001年はリーグ優勝に貢献。2002年限りで戦力外通告を受けると、阪神にテスト入団。2003年、ベテランリリーフとして活躍して、リーグ優勝に貢献。2004年オフ現役引退。 2009年、大阪ゴールドビリケーンズ投手コーチ就任。2012年、06BULLSのコーチおよび一時は選手としてプレー。 通算成績は375試合、34勝29敗83S、防御率3.44、580回1/3、594奪三振。最優秀救援投手1回。市立銚子高卒、188センチ、97キロ。右投右打 |
ドラフト指名候補の高長身速球投手が、まさかの指名漏れ
石毛博史は、千葉県銚子市に生まれ、小学生時代から野球を始めます。銚子市立第五中学校に進学すると、エースに就任して球速140キロ台の速球を投げ込んでいました。銚子高校(現在の市立銚子高校)進学後も、1年夏からチームの中心でしたが、同年の夏予選は1回戦敗退します。しかし、2年夏は快調に県大会を勝ちあがり、5回戦、準々決勝もともに1点差で勝利しました。1979年以来2度目の甲子園出場へ向けて、東海大浦安との準決勝に臨みましたが、初回に5点を失い、その後も得点を追加されて、1-11で大敗します。3年最期のチャンスは、2回戦で早々と姿を消して、甲子園には縁がありませんでした。
全国舞台経験はありませんでしたが、188センチの長身から投げ下ろす速球の持ち主は、プロ指名が確実視されます。高校には記者会見場が準備されて、吉報を待ちました。しかし、1988年ドラフト会議では石毛の指名が無く、71番目の選手を最期に終了します。まさかの指名漏れとなり、内定していた住友金属鹿島へ入社するつもりでした。
巨人にドラフト外で入団すると、リリーフ適正を見出される
失意のドラフトが終わったその日、自宅に帰ると1本の電話が鳴ります。それは巨人関係者からのもので、石毛博史をドラフト外で獲得したいというものでした。反対する両親を自身で説得して入団しましたが、初年度は選手枠から外れて二軍試合にすら出場できなくなります。しかし、無理に飛ばすことなくしっかり調整できたことで、球速は150キロをオーバーしました。
さらに当時二軍コーチをしていた宮田征典との出会いが契機となります。かつて「8時半の男」と呼ばれた巨人リリーフの先駆けだった宮田は、石毛にリリーフ適正を見出しました。元々、肘の故障持ちで長いイニングを投げられなかっただけに、渡りに船となります。プロ2年目に、イースタンで9勝5敗4セーブをマークし、3年目の1991年、一軍デビューを飾りました。
元祖「勝利の方程式」として最多セーブ投手タイトル獲得
1992年の巨人は、序盤から低迷して5月には最下位に沈みます。新外国人ケアリーをクローザーとして起用していましたが、失敗が続いていました。しかし、緊急トレードで獲得した大久保博元が大活躍、さらに石毛博史を新クローザーに抜擢すると息を吹き返します。そして、一気に勝利を積み重ねて前半戦首位に立ちました。石毛は、荒れ球で与四死球が多いという脆さを持っていましたが、高い奪三振率でチームを救います。最終的には、優勝したヤクルトと2ゲーム差の2位に終わりましたが、16セーブに防御率1.32の活躍で、巨人のアキレス腱だったクローザー問題を解決させました。
1993年は、開幕からクローザーを務め、セットアッパーに定着した橋本清とともにフル回転します。同年監督に復帰した長嶋茂雄によって、「勝利の方程式」と命名されて勝ちゲームの終盤を任されました。前年より防御率を落としましたが、30セーブで、巨人では角盈男以来となる最優秀救援投手タイトルを奪います。しかし、安定感は依然としてなく、1994年もリーグ最多の19セーブを挙げましたが、「10.8」決戦には登板機会はありませんでした。
方程式は崩壊し、自身も不安定な投球でクローザー剥奪
1995年、石毛博史は通算100セーブポイントを達成しましたが、救援失敗が続きます。橋本清も酷使から球威を失い、勝利の方程式はわずか2年で崩壊してしまいました。さらに、後半からは西山一宇にクローザーの座を奪われます。チームも、前年の日本一から一転してリーグ3位に転落しました。
1996年は、開幕から西山の不調が続き、再び石毛がクローザーに返り咲きます。しかし、このチャンスも生かせずに、緊急補強したマリオ・ブリトーが大活躍してチームのクローザーを務めました。同年は、最大11.5ゲーム差をひっくり返してメークドラマと言われた逆転優勝を実現します。しかし、石毛は23試合で4勝1敗3セーブに終わりました。
その後移籍した近鉄、阪神でも優勝し優勝請負人と呼ばれる
1997年オフ、吉岡雄二とともに、石井浩郎との1対2のトレードで近鉄バファローズへ移籍します。当初は、自身初となる先発にチャレンジしましたが、目立った活躍は出来ず再びリリーフに専念しました。2000年にはチーム2位となる46試合に登板し、2001年には25試合の登板ながら、チームの優勝に貢献します。日本シリーズでは、1試合の登板機会も訪れずチームも敗戦しました。
2002年限りで近鉄を戦力外となると、阪神タイガースにテスト入団します。2003年は、貴重なベテランリリーフとして、チームの優勝に貢献しました。所属した3球団すべてで優勝を味わったことから優勝請負人とも呼ばれ、巨人時代以来の日本シリーズ登板も果たします。しかし、2004年の登板はわずか2試合に終わり、同年限りで現役引退しました。
引退後は、指導者転身も、時に選手としてマウンドにあがる
引退後、しばらくスポーツ用品店勤務をしていましたが、2009年から指導者生活をスタートさせます。関西独立リーグの大阪ゴールドビリケーンズ投手コーチに就任しましたが、一時期、現役選手としてマウンドにも立ちました。その後、香川オリーブガイナーズベースボールアカデミー監督を歴任して、2012年からは06BULLSのコーチ、さらには6年ぶりに選手としても復帰するなど、野球にかかわり続けています。