名前 | 田中良平(タナカリョウヘイ) |
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生年月日 | 1982年11月18日 |
国 | 日本 |
出身 | 石川県小松市 |
プロフィール | 東陵小3年から地元の軟式野球チーム・東陵少年野球クラブで野球を始める。
中海中までは外野手を務め、加賀高2年の春から投手に転向。140キロを超えるストレートを武器とし、突如豪腕投手になると、北陸三羽ガラスの一人として注目される。投手経験が少なく、3年夏の予選は早々に姿を消すが、将来の逸材として注目されて2000年ドラフトではロッテから1位指名。 3年目の2003年にプロ初登板。しかし、制球力の悪さを克服できずイースタン中心の生活が続く。2005年には血行障害を患い手術。2006年、制球力アップのためサイドスロー転向。2007年ウインターリーグで好投を見せて、2008年一軍キャンプに招聘される。しかし、期待に応えられず2008年オフ戦力外通告。 現役続行にこだわり、ボルチモア・オリオールズとマイナー契約。1A、2Aなどで3シーズン戦うもメジャー昇格できず2012年3月に解雇通告。選手に区切りを付けて、指導者に転身し、現在はフューチャーベースボールアカデミーにてアドバイザーとして活躍中。 通算成績は5試合、0勝0敗0S、防御率8.10、10回0/3、5奪三振。加賀高卒、183センチ、77キロ、右投右打 |
高2から豪腕投手に転向すると、北陸三羽ガラスと称される
田中良平は、石川県小松市で生まれ、小学3年生から東陵少年野球クラブで野球を始めます。中海中学から加賀高校に進学して野球を続けていましたが、当時は野手を務めていました。加賀高校1年時は2回戦敗退し、2年春から投手に転向すると、突如才能が開花します。細身の体型ながら、右腕から繰り出される速球は140キロをオーバーしていました。もちろん、投手経験がほとんどなく制球には問題があったため夏予選では準々決勝で大敗します。しかし、高3の頃には、その素質の高さから、内海哲也(敦賀気比)、森大輔(七尾工業)とともに北陸三羽ガラスと呼ばれました。
3年最期の夏、石川県予選で、加賀高校と七尾工業の対戦が期待されましたが、両校は早々に敗れます。投手としての経験不足は否めませんでしたが、その豪腕から加賀エクスプレスの異名を取り、秋のドラフトでは上位指名候補として注目されました。
投手経験不足ながら素質が評価され、ロッテドラフト1位指名
2000年ドラフト会議を前にして、森大輔は社会人入りを表明しましたが、北陸三羽ガラスの残り二人が高評価を受けます。田中良平は千葉ロッテマリーンズから、内海哲也はオリックス・ブルーウェーブから1位指名を受けました。内海は、意中の巨人入りを目指して社会人入りしましたが、その時点で投手経験2年もない田中は、先にプロ入りします。ロッテは、逆指名2位で加藤康介、3位、4位で渡辺俊介ら社会人出身の投手を指名していたため、田中はまずファームスタートとなりました。
ルーキーイヤーは、身体作り中心の体力強化に努め、イースタンリーグでも登板はわずか1試合に終わります。しかし、将来の先発候補として、2年目にはイースタンでローテーション投手に定着して25試合に登板しました。68回を投げて、52奪三振と特徴を披露しましたが、反面68四球という制球力の弱さが露呈します。被本塁打も11本と多く、防御率は5.93という不本意な数字でした。
未完の大器の域は出ないものの、初めて一軍マウンドも経験
しかし、かつて加賀のエクスプレスと称された速球は、目に見張るものがあり継続して大きな期待を抱かれます。3年目の2003年、イースタンで多くの登板機会を与えられると、同年シーズン終盤の8月、初めて一軍昇格してリリーフでマウンドにあがりました。緊張の初登板では3回3失点と崩れ、9月の初先発でも2回4失点とKOされます。一軍実績は5試合、勝敗無しで投球回数10回、5奪三振、防御率8.10に終わりましたが、確かに階段を登りました。
怪我に苦しめられるも、兄弟での一軍対戦を目指して奮闘
2004年は一軍に呼ばれることがなく、イースタンのみの登板に留まります。防御率を少し向上させて4点台としたものの、伸び悩みの時期が続きました。翌2005年には、右手の血行障害を患い手術を余儀なくされます。同年はわずか1試合しか登板できず、もどかしいシーズンとなりました。しかし、同年秋のドラフト会議では、実弟の靖洋が西武ライオンズ4巡目指名を受けてプロ野球選手となります。ともに一軍で投げあう日を夢見て、再起に臨みました。
2006年からは制球難を克服するために、サイドスロー転向にチャレンジします。イースタンでキャリアハイの35試合に登板しましたが、好不調の波が激しい悪癖は治っておらず、防御率は4点台のままでした。
期待のドラフト1位入団も、ベールを脱ぐことなく戦力外通告
千葉ロッテは、2004年にかつて快進撃を起こしたバレンタインを監督に復帰させて、2005年にはシーズン2位からの日本一を達成します。リリーフには、薮田安彦、藤田宗一、小林雅英の3投手がYFKとして勝利の方程式を務めていました。しかし、2007年オフに3人揃って球団を去るという危機が訪れます。イースタンでの成績は変わらなかった田中良平でしたが、同年秋にハワイウインターリーグで好投を見せていました。
すると、2008年は、YFKの穴埋めを期待されて春季キャンプで一軍に抜擢されます。紅白戦や初の対外試合でもともに開幕投手に指名されるなど、ロッテ首脳陣に大きな期待をかけられました。しかし、シーズンが始まると、一軍に呼ばれなくなります。結局、未完の大器のままで、プロ8年目のオフに戦力外通告を受けました。
メジャー挑戦で復活をかけるも夢叶わず、指導者に転身
現役続行にこだわる田中良平は、トライアウトに参加しますが獲得球団は現れません。それでも弟と投げ合うまでと心に誓い、アメリカでの新たな挑戦をスタートさせました。2009年5月にボルチモア・オリオールズとマイナー契約し、1Aや2Aチームで揉まれます。渡米3年目には、チームの優勝決定戦で好投を見せましたが、メジャー昇格は勝ち取れませんでした。
2012年3月チームから解雇されると、現役引退を決意します。現役を退くと指導者に転身し、現在はフューチャーベースボールアカデミーにて、吉岡雄二らとともにアドバイザーとして活躍しています。弟・靖洋は、西武ライオンズで中継ぎとして、プロ1勝をあげましたが、奇しくも2015年12月に自身の古巣ロッテに移籍が決まりました。さらに移籍後、自身同様にサイドスローに転向して奮闘しています。