横山竜士について
名前 | 横山竜士 |
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生年月日 | 1976年6月11日 |
国 | 日本 |
出身 | 福井県勝山市 |
プロフィール | 平成6年ドラフト5位で広島カープに入団。9年対中日戦で初白星。右投右打、178センチ、77キロ
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無名の投手ながら広島にドラフト指名を受ける!
後に20年以上野球選手としてプレーした横山竜士ですが、プロ入り前は全くの無名投手でした。福井県の中でも競合として知られる福井商業高校に進学し、1年の秋からエースとして台頭しましたが、甲子園大会などの全国大会には無縁のまま。ストレートの球速は最速で140キロ半ば、アベレージで141キロが出るタイプの本格派でしたが、全国的な知名度はほぼゼロ。そのため、注目されることなくドラフト会議を迎えることになりました。
横山を高く評価していたのが広島カープのスカウトたち。まだまだ荒削りな投手でしたが、育てればものになると判断した広島首脳陣は横山を94年のドラフト会議で5位で指名。晴れて横山はプロ野球選手の一員になりました。
この当時の広島投手陣と言えば、先発に佐々岡真司、リリーフの大野豊と言う形で軸となる投手が存在していたため、一軍入りするには大きな壁が立ちはだかっていました。そのため横山の一軍入りは叶わず、入団から2年目までは二軍暮らしが続きました。
3年目にして10勝を挙げてブレイク
入団3年目となった97年、横山竜士は春季キャンプから好調で若手の中でも注目される存在に。そしてシーズンが開幕すると、開幕一軍入りを果たします。そしてシーズン開始早々の4月13日の横浜ベイスターズ戦でプロ入り初登板。3番手投手として登板すると2回を無失点に抑えるという上々の滑り出しを飾りました。
横山が台頭した最大の理由となったのは投手陣の不振でした。前年に合計41勝を挙げた紀藤真琴、山内泰幸、加藤伸一、そして山崎健らが揃って不振に陥り、4人合わせてわずか9勝という大誤算。この穴を埋めるためにやってきたのが横山でした。ストレートの球速は140キロ台と当時としてもさほど速球派と言うわけではありませんでしたが、時にロングリリーフになってもいとわずに投げられるというタフネスさも魅力の一つとなり、シーズン中盤からはロングリリーフを務めるように。
イニングイーターっぷりが評価されつつもシーズンでは勝ち星を拾うシーンも目立ち、この年だけでなんと10勝をマーク。中継ぎ投手としては異例の荒稼ぎが話題となりました。この年の新人王の権利を得ていた横山でしたが、同僚で先発投手として2桁勝利を挙げた澤崎俊和に譲る形になり、惜しくも新人王獲得はなりませんでした。
翌98年も横山は中継ぎ投手として24試合に登板。前年の56試合よりは激減しましたが、防御率は1点近く下げるなど、その活躍は崩壊しつつあった広島のリリーフ陣の中でも希望となりました。しかし、この頃から横山はルーズショルダーと呼ばれる方の故障を頻発するようになり、次第に登板数が減っていきました。
ルーズショルダーに負けず、リリーフで台頭
実質1年目となった97年の活躍もあり、横山竜士は達川光男監督に替わった99年からは先発投手として期待されるようになりましたが、この年はルーズショルダーで登板が制限されましたが、23試合で7勝4敗とまずまずの成績を残しました。
しかし、このツケが回ったのが00年。横山は肩を負傷してしまい登板数はわずか3試合のみ。01年に復活はしますが、2勝6敗と今一つな成績で終わりました。その後も横山は2桁登板→肩痛で登板数が減るというケースを過ごし、ほとんど順調に使われることはありませんでした。
その横山がようやく戦力として計算されるようになったのは05年。度重なる肩痛で球威は全盛期のようにはなりませんでしたが、その一方で長年の投球術で駆け引きを覚えた横山は熟練の投球でチームのセットアッパーに。06年には永川勝浩とベイルとのトリオ、NYBのひとりとして8回を任されるようになりました。
本格的に横山がリリーフとして輝いたのは07年。当時の監督、マーティ・ブラウンがキャンプから注目していた選手のひとりとして横山の名を上げ、開幕から横山はリリーフの主戦投手として積極的に起用されるように。この年の横山は60試合に登板。3勝3敗、防御率2.63と安定した投球を見せていきました。
セットアッパーとして活躍も、腰の故障で低迷
横山竜士は08年以降もセットアッパーとして台頭。この年は自身初の防御率1.50をマークして、広島も97年以来となるAクラス目前まで迫りました。しかし、この年は勝負所で横山は故障してしまい、終盤のAクラス争いに参加できなかったという残念な結果に終わりました。
図らずして横山の存在感が浮き彫りになったシーズンですが、09年も防御率こそ3.52と跳ね上がりましたが、自己最多となる69試合に登板。そして10年には3勝2敗、時にクローザーとしても登板して自己最多の11セーブを挙げて、2度目となる防御率1点台となる1.62をマークしました。
ところがこの年以降、横山の成績は急降下。11年には腰の手術のために戦線を離脱しましたが、復活以降今一つの成績に。そして14年に横山は現役を引退。15年からは解説者として第二の野球人生を歩み始めることになりました。