名前 | 吉田浩(ヨシダヒロシ) |
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生年月日 | 1971年11月5日 |
国 | 日本 |
出身 | 富山県西礪波郡福岡町(現:高岡市) |
プロフィール | 高岡第一高校時代は、甲子園出場経験無し。
1989年ドラフト6位で指名されて阪神に入団。入団5年間はファームで過ごす。6年目の1995年、一軍初出場。シーズン終盤に初安打を本塁打で飾る。1997年は、初の開幕一軍スタート。同年はほぼ一軍帯同して、キャリアハイの82試合に出場。1998年からは再び1、2軍の往復生活に逆戻り。2002年、8試合出場に終わり戦力外通告。 12球団トライアウトに参加するもNPBから獲得球団が現れず。しかし住友金属鹿島から誘われて、社会人野球入り。2003年は4番に定着して都市対抗出場。同年のIBAFワールドカップにも、元プロ選手として初のアマチュア代表選出。2006年コーチ兼任となり、同年現役引退。 通算成績は221試合、258打数62安打、3本塁打、13打点、2盗塁、打率.240。高岡第一高卒、179センチ、86キロ、左投左打 |
高岡第一高校時代、2度準決勝で敗退して甲子園出場ならず
吉田浩は、富山県西礪波郡福岡町(現:高岡市)で生まれ、福岡中学時代には投手として県大会優勝を飾ります。その後地元の高岡第一高校に進学して、同校として2度目の甲子園出場を目指しました。しかし、準決勝、準々決勝敗退と2年連続でなかなか実現できません。3年最期の夏は、投手から外野手に転向して臨みましたが、準決勝で逆転負けを喫しました。
阪神に6位指名で入団するも、5年間全てをファームで過ごす
全国的には無名の選手でしたが、1989年ドラフトで阪神タイガース最終の6位で指名されます。背番号64の高卒ルーキーは、同じ外野手で5位指名された新庄剛志とともにファームスタートとなりました。身体つくりが優先されたため、ウエスタンリーグ出場も1年目18試合、2年目27試合と控えめとなります。ガッツあふれるプレーをアピールしましたが、打率はともに2割にも届かず力不足が露呈しました。
3年目にウエスタンで40試合と、出場機会を少し増やします。しかし同期の新庄は同年に一軍デビューすると初打席で初本塁打を飾り、そのまま一軍に定着しました。さらに亀山努とともに亀新フィーバーを巻き起こして、阪神2位躍進に大きく貢献します。吉田も続きたいところでしたが、同年も一軍昇格チャンスはありませんでした。それでもくさることなく練習に精を出し、ウエスタンで主力となります。2年連続で70試合以上に出場して、打率も徐々に上昇させます。当時、チームには吉田康夫、吉田剛、吉田豊彦など吉田姓が多く、顎の特徴から「アゴ吉(あごよし)」の愛称で親しまれました。
プロ初安打を本塁打で飾ると、徐々に一軍出場機会を増やす
プロ6年目の1995年4月、代走として一軍初出場を果たします。その2日後には、すでに外野手レギュラーを務めていた新庄剛志の後を打つ8番として初先発機会が与えられました。その後、再びファームへ戻ると、打率.275、6本塁打など好調を維持します。するとシーズン終盤に、再び一軍へ昇格して先発出場しました。このチャンスに、三浦大輔(横浜)からプロ初安打を初本塁打で飾るという偉業を達成します。ようやく、プロとしてスタートをきりましたが、同年の阪神は開幕から不調が続き、新庄ら主力の離脱後は最下位に沈みました。
1996年からは背番号を42に変更して、一軍定着を目指します。その思惑通り、走攻守と三拍子揃った選手として、初めて一軍試合出場が二軍試合出場数を上回りました。前年の15試合から倍増する34試合の一軍試合に出場し、少ない打席数ながらも打率.259を残します。持ち前の元気印で存在感のアピールにも成功しました。
代走・守備固めなどで一軍定着し、自身最高の82試合出場
遅まきながら着実に階段を登ると、1997年には初の開幕一軍メンバー入りを果たします。同年は、代打、代走、守備固めなどで、一軍戦力として定着しました。守備重視ながらも、5月末には2試合連続猛打賞で首脳陣とファンを驚かせます。結局、キャリアハイの82試合に出場して、打率.265の成績を残しました。
1998年からは背番号0に変更して、レギュラーを目指します。しかし、外野手は新庄剛志、坪井智哉、桧山進次郎らメンバーが固定されていました。前年と打って変わって、34試合出場に留まり、3年ぶりにウエスタン出場数が(44試合)上回ります。また同年は、横浜ベイスターズ戦において、横浜捕手・谷繁元信のプレーの前に引き立て役となりました。1点ビハインドの9回2死から、代打・八木裕が安打で出塁すると、すかさず代走として登場します。次打者の打席で、クローザー佐々木主浩がワンバウンドのフォークを投げると、バットに当たったかのようなプレーがボールと判定されました。スタートを切っていた吉田は、悠々二塁に到達し、谷繁が審判へ講義しているのを見て三塁ベースを奪おうとします。しかし、俯瞰で見ていた谷繁がすぐさまボールを拾って送球してタッチアウトで、ゲームセット。高度なトリックプレーは、谷繁の冷静さを語る代名詞のプレーとなってしまいました。
社会人野球に転身すると、アマチュア日本代表として活躍
1999年以降、再びファームを主戦場とすると、一軍試合数をどんどん減らしていきます。走攻守で優れた能力を持っていましたが、すべてがオールマイティゆえに、特徴のない選手になってしまいました。2002年、8試合の出場に終わると、ついに戦力外通告を受けます。同期の新庄剛志が大リーグでプレーしていたこともあって、まだ現役にこだわりました。
12球団トライアウトに参加すると、NPB球団からは声がかかりませんでしたが社会人野球・住友金属鹿島関係者の目に留まります。こうしてチームに加入すると翌年には4番打者として都市対抗野球出場に貢献しました。2003年のIBAFワールドカップでは、元プロ選手として初めてアマチュア日本代表に選出されます。そこでも主力としてプレーして日本の銅メダル獲得を呼び込みました。その後もプレーを続け、2006年にはコーチ兼任となります。そして同年、新庄が日本ハムでのプレーを最期に引退すると、時を同じくして自身も退部しました。その後も住友金属に在籍してスカウトに転身し、さらに学生野球資格回復研修も受講します。無事に学生野球指導者資格を得て、今後の活躍が期待されています。