名前塩谷和彦(シオタニカズヒコ)
生年月日1974年5月27日
日本
出身兵庫県高砂市
プロフィール松陽中学時代に、全国優勝を経験。神港学園3年夏に甲子園出場。3回戦敗退するも5打席連続安打を放つ。

1993年ドラフト6位で阪神に入団。1995年に一軍初出場、1996年は初本塁打を放つも、激しい捕手レギュラー争いに加われない日々が続く。1998年からは内野手挑戦し、1999年から正式に内野手としてリスタート。徐々に一軍出場機会を増やすも、レギュラー獲得できず、2001年オフにトレードでオリックスに移籍。

手薄だった外野手に定着すると、2003年は一気にレギュラーを奪い、24試合連続安打の球団新記録樹立。初めて規定打席に到達して打率3割もマーク。2004年は規定打席不足ながら、キャリアハイの9本塁打、48打点。しかし、オフに近鉄との合併で一気にライバルが増えると、2005年は16試合出場にとどまる。同年オフに戦力外通告。

2006年、韓国プロ野球・SKワイバーンズに移籍。好スタートを切るも死球骨折で6月に解雇されて現役引退。その後独立リーグ指導者に転身するも、突然の辞任。実業家転身後に、かつての詐欺が発覚して逮捕を繰り返し実刑判決が確定。

NPB通算成績は496試合、1,445打数381安打、29本塁打、145打点、15盗塁、打率.264。
KBO通算成績は23試合、91打数27安打、3本塁打、19打点、1盗塁、打率.297。神港学園高卒、右投右打。182センチ、83キロ

神港学園の主将、強打の捕手として、夏の甲子園初出場に貢献

塩谷和彦は、兵庫県高砂市に生まれて、幼い頃から野球を始めます。松陽中学時代には、第5回全日本少年軟式野球大会で優勝するなど、当時から野球の才能を開花させていました。神港学園高校に進学すると、2年生から4番三塁手として予選に出場し、チームを準優勝に導きます。3年から捕手に転向すると、井上立暁とのバッテリーで神港学園にとって初の夏甲子園出場を決めました。

3番捕手で主将という、まさにチームの大黒柱として初の甲子園に出場します。同大会では、星陵高校の松井秀喜が5打席連続敬遠を受けるという異様な盛り上がりを見せました。そんな中で地元代表の神港学園は、2試合連続逆転勝利するなど3回戦進出します。池田高校戦でもリードして終盤を迎えましたが、9回裏に逆転サヨナラ負けして涙を呑みました。

高卒ルーキー捕手のため、入団3年間をほぼファームで過ごす

1992年のドラフト会議では、ゴジラこと松井秀喜に大注目が集まります。4球団強豪の末、読売ジャイアンツに入団が決まると、抽選を外した阪神タイガースは地元の好投手・安達智次郎を外れ1位で指名しました。同じく地元の塩谷和彦は、阪神から6位指名を受けて捕手として入団が決まります。甲子園でも5打席連続安打を放った実績があるだけに、打撃面も評価されました。

高卒ルーキーのため、安達とともにファームスタートとなります。身体つくりをメインに進めるも、ウエスタンの初打席で本塁打を放つなど非凡な才能を見せました。一軍の捕手には、山田勝彦、木戸克彦、関川浩らベテランから若手まで揃っていたこともあって、プロ2年目の1994年はシーズン途中に3ヶ月のアメリカ野球留学も経験します。そして、3年目にはウエスタンで主力として72試合に出場しました。同年は夏場に初めて一軍に昇格します。8試合のみの出場でプロ初安打は出ませんでしたが、マスクをかぶって一軍ゲームを経験しました。

プロ初本塁打を満塁弾で決めるなど、自慢の長打力を披露

プロ4年目の1996年、6月のウエスタン月間MVPを奪うほどに好調を維持します。するとシーズン終盤に、一軍に呼ばれてプロ初安打を記録しました。さらに同年の最終戦で阪神の記録にも名を連ねます。中西清起、木戸克彦の引退試合となった試合は、1回裏に新庄剛志が満塁本塁打を叩き込みました。そのまま猛攻が続き、再び満塁の場面を作ると中西の代打として塩谷和彦が登場します。ここで持ち前の長打力を発揮して1イニング2本目の満塁本塁打が飛び出して阪神ベンチはお祭り騒ぎとなりました。

捕手を諦め内野手に転向するもレギュラー獲得には至らず

1997年オフに、矢野輝弘が加入すると即正捕手の座を奪うなど、捕手としての出場はさらに難しくなります。出場機会を増やすために、1998年から高校時代にも経験があった三塁手に転向し、1999年には正式に内野手登録となりました。すると少しずつ一軍出場機会を増やします。しかし、レギュラーを奪うほどではなく、2001年オフには斉藤秀光との交換トレードでオリックス・ブルーウェーブへ移籍が決まりました。

オリックス外野手レギュラーとして活躍し、打率3割も達成

新天地では、開幕第2戦にスタメン抜擢されると、手薄だった外野手や一塁手などで出場機会を増やします。いきなりキャリアハイを大幅に更新する99試合出場と大きなきっかけを掴みました。翌2003年は、初めて開幕スタメンに抜擢されます。右方向へのバッティング技術を身につけて打撃を安定させると、レギュラーとして多くの試合に出場しました。初めて規定打席に到達させて、打率も.307をマークします。夏場には、イチローの持っていた球団記録を超える24試合連続安打を達成しました。

2004年は規定打席不足に終わるも、9本塁打、48打点とキャリアハイの数字を残します。しかし、同年オフには、近鉄とオリックスの合併、そして新球団楽天の誕生という余波にも巻き込まれ、阪神時代の1998年から続く所属球団の連続最下位が7年に延びてしまいました。

オリックス解雇以降、歯車が大きく狂わせて転落の人生を送る

分配ドラフトでオリックス残留となりましたが、近鉄の主力が加入したことで一気にレギュラーを失います。2005年はわずか16試合出場にとどまり、オフには戦力外通告を受けました。現役続行にこだわる塩谷和彦は、SKワイバーンズに移籍して韓国プロ野球に挑戦します。当時32歳で開幕から順調にシーズンをスタートさせましたが、5月に死球を受けて運命が一気に変わりました。骨折によって長期離脱すると、6月には早くも解雇されます。その後、獲得する球団も現れず、一転して現役引退を余儀なくされました。

その先の第2の人生は転落の一途をたどります。独立リーグ・福井ミラクルエレファンツで指導者生活をスタートさせましたが、開幕前日に突然辞任して物議をかもしました。不動産経営に着手して実業家転身しましたが、球界にまさかのニュースが飛び込んできます。塩谷和彦は詐欺の容疑で逮捕されると、その後も再逮捕を繰り返しました。プロ野球選手時代の詐欺含めて次々に発覚し、実刑判決が下ります。控訴することなく刑が確定し、元プロ野球選手として汚点を残してしまいました。

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