文/田澤健一郎 写真/榎本壯三

落合GMは極めて民主的に 猛烈に仕事をしていた

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―——まずは、この4年間の振り返りから伺わせてください。落合博満GM(ゼネラル・マネジャー)が2017年1月末で退団、後任のGMは置かないことになりました。GMの導入は球団初でしたが、システムとして長所、短所など感じたことがあれば教えてください。

佐々木 その点についていろいろと言う人もいますが、組織づくり、仕事のすみ分けがきっちりできたという点はよかったと思います。

——―具体的には?

佐々木 たとえばチーム編成は落合GMが、アマチュア選手についてはスカウト、外国人選手と国内プロ野球のスカウティングは編成部といったように、担当と仕事をしっかり決め、人員を配置できました。監督、編成部、スカウトの連携をうまくとれる組織づくりをしてくれたということです。長期的な視野に立てば人材の確保と育成の方向づけができたのではないでしょうか。これはまさに、落合GMの置き土産ですね。

——―落合GMについてはさまざまな報道がありました。

佐々木 落合GMのキャラクターもあって、メディアへの露出が極端に少なかったので誤解された部分も多かったように思います。なにを言われても気にせず、「言わせておけ」という人ですからね。実際は猛烈に仕事をしていたのですが、なにもやっていないと捉えられることもあったりして……まあ、それがある意味では彼の作戦だったのかもしれませんが。

——―実際には、どういった仕事ぶりだったのでしょうか。

佐々木 コーチの人選やドラフト戦略について、盛んに意見を言っていましたが、絶対に決めつけはしないんです。特にスカウト会議はわたしも最終段階で何度か出席しましたがスカウト部長を尊重しながら「オレはこう思うが君はどう思う?」と非常に民主的に運営していましたよ。ただ一方で、メディアにはとにかくしゃべらない人ですからね(苦笑)。いまだに不評はかっている部分もあるとは思いますが、実情は違うんです。あんなに素晴らしい人、すごい人はなかなかいない。

——―その他に落合GMの仕事で印象に残るものは?

佐々木 年俸の適正化です。これも、「ただのコストカッターじゃないか」といった批判を受けました。確かに結果はともないませんでしたから、その批判は甘んじて受け入れます。ただ、批判は致し方ないが、若返りも含めて落合GMは将来を見すえたチームづくりを考え実行し、実際に機能していたと思います。ただ、若返りなどチーム改革はいろいろな反動が出るんですよ。

——―19年ぶりの最下位、球団初の4年連続Bクラスも反動のひとつでしょうか。

佐々木 捉え方次第では、そう捉えることもできるかもしれません。長く球団を運営するなかでは、そういう時期も必要なのだと考えています。もちろん、ファンの方の「勝ってほしい!」という気持ちもあるので難しいことですし、球団社長だった立場でそう言うのは、本来であればよろしくないことですけどね。

——―痛みを伴っても改革が必要と感じたこともあったのでしょうか。

佐々木 ドラフトで獲得した選手がなかなか成長できなかったことでしょうか。それは「我慢して使う」「場数を踏ませる」「忍耐で育てる」ということをするのが難しい環境だったことも影響していると感じました。ベテランの活躍は素晴らしいですが、一方でベテランが踏ん張ると、若手の出場機会は奪われます。そのバランスがよくなかった。「若手を育てろ」と言葉にするのは簡単ですが、チーム状況というものを考慮すると、非常に難しいことではあるのですが。

——―答えが出るのはこの先なのかもしれませんね。こうした経験、結果を踏まえて再びGM制を採用することはあり得ますか?

佐々木 ケース・バイ・ケースでしょうね。今季は、森繁和監督と友利結コーチが現場を預かりながら編成も携わっている形です。これもまたいろいろと意見が出るのですが、わたし自身はそのときのベストの形、適材適所でやっていけばいいのではないかと見ています。

負担の多かった選手兼任監督 次のチャンスに期待したい

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——―もうひとつ、2014年、2015年は谷繁元信選手兼任監督体制で戦いました。選手兼任監督というシステムはやってみていかがでしたか。

佐々木 はじめるときの落合GMの反応は、「おもしろいんじゃないの?」でした。また、別の機会で野村克也さんに意見をうかがったときは「大変だよ」でした。結果的には、野村さんの反応が当たってしまった感じですかね。我々としては、谷繁監督の通算試合出場記録や新人年からの連続本塁打記録などをしっかりと尊重したかったのです。そういった大記録は、若い選手の夢にもなりますから。

——―やはり、選手兼任監督は負担が大きいものですか。

佐々木 そうですね。だから落合GMも参謀役として森さんをヘッドコーチにしたのだと思います。

——―それでも結果を出すことは難しかった。

佐々木 谷繁監督の結果が出なかった本当の原因は、我々にもわかりません。先ほどお話したチームづくり、若返りの過程というタイミングが悪かったとも言えるかもしれませんしね。ちなみに、中日新聞に気になる読者からの投稿があったんです。要約すると、「あれだけシビアなプロ野球界でチームを引っ張っていくためには、やはり人間的にまだ成熟していなかったのではないか?」という内容でした。谷繁監督と、Jリーグ・名古屋グランパスエイトの小倉元監督についての投書だったのですが、「そんな考え方もあるのかな」と感じました。一度、球界を外から、一段、高い場所から俯瞰してみて、再びチャンスがあってもいいのではないかと思います。

——―谷繁さんは春季キャンプの視察で北谷(沖縄)にもいらしてましたね。

佐々木 ええ、わたしもじっくりと話し込みましたよ。チームの現況についてやや辛口な話をいただきましたけどね(笑)。

佐々木崇夫
1946年、石川県生まれ。1969年に中日新聞社に入社し、販売局へ配属。1998年に東京本社(東京新聞社)販売局へ移り、2005年、中日新聞社取締役販売担当。常務取締役広告担当を経て2013年10月に中日ドラゴンズ代表取締役兼オーナー代行に就任した。2016年2月に退任し、相談役に就任。

田澤健一郎
1975年、山形県生まれ。大学卒業後、出版社勤務を経て編集・ライターに。主な共著に『永遠の一球』『夢の続き』など。『野球太郎』等、スポーツ、野球関係の雑誌、ムックを多く手がける元・高校球児。


VictorySportsNews編集部