群を抜くサンウルブズの集客力

 2017年2月25日、東京青山の秩父宮ラグビー場には、満員に近い1万7,533人の観衆が集っていた。世界最高峰のプロラグビーリーグ、スーパーラグビーに昨年から参戦している日本チームのサンウルブズが、昨年の王者ハリケーンズ(ニュージーランド)を迎え撃ったからだ。

 野球やサッカーと比べると観客数は驚くべき数字ではないが、日本最高峰のジャパンラグビートップリーグ2016-2017シーズンの総観客数は460,364人(1試合平均5,059人)である。大学ラグビーの早明戦などその試合自体に人気のあるものを除けば、サンウルブズには抜群の集客力があるのだ。スーパーラグビー初参戦となった昨年、秩父宮ラグビー場で開催されたホームゲームでは、開幕戦の19,814人を筆頭に平均17,000人以上の観客を動員した。チケットもトップリーグよりも高額にもかかわらずだ。

 なぜ、サンウルブズは観客を集めるのか。結論を先に書けば、日本のすべてのラグビーファンが応援しやすいチームだからだ。スーパーラグビーは1996年に発足。ニュージーランド、オーストラリア、南アフリカというラグビー強国からプロクラブが複数参加し、毎年2月から8月にかけて行われてきた。チーム数は徐々に拡大し、2016年からは南アフリカからさらに1チーム、アルゼンチン、日本からも1チームずつ加わって、4大陸、5カ国から18チームが参加する巨大なプロリーグとなった。ファンの注目度も高く、世界120カ国でテレビ放送されている。

 サンウルブズは、スーパーラグビー参戦のために設立された日本初のプロラグビーチームだ。企業がチームを抱え、日本ラグビー協会傘下で行われるトップリーグとは違い、運営も日本ラグビー協会とは別組織の一般社団法人ジャパンエスアールが担当する。スーパーラグビーはプロの興行であるため、試合前の演出も華やか。2月25日の開幕戦には、サンウルブズのオフィシャルサポーターで、狼バンドとも呼ばれる「MAN WITH A MISSION」が本格的なライブを行い、スタジアムDJが雰囲気を盛り上げ、観客はお揃いの手袋をしてタオルを振り回し、「アウ~ッ」と狼のごとく声を揃える。いずれも静かなイメージのあった日本ラグビーのスタジアムでは考えられなかったことばかりだ。

日本ラグビーの夢であり、希望である

©Getty Images

 もちろん、グラウンドでは世界トップレベルのラグビーが繰り広げられる。サンウルブズの選手も、原則として日本代表資格のある選手たち。今回の参戦は2019年に日本で開催されるラグビーワールドカップの日本代表を強化するのが最大の目的だ。世界最強のニュージーランド代表をはじめ、オーストラリア、南アフリカも原則的にスーパーラグビーでプレーした選手の中から代表を選出する。いま日本の若い選手たちは「サンウルブズに入りたい」と願う。強豪国と同じような代表選出への分かりやすい道筋ができたわけだ。

 もう一つ付け加えれば、サンウルブズは日本ラグビーの聖地である秩父宮ラグビー場を「ホーム」とした初のチームでもある。サンウルブズの日本国内での試合は秩父宮ラグビー場でしか行われない。だからこそ、日本のすべてのラグビーファンが応援しやすいわけだ。

 しかも、日本以外の参加国は、そのまま2015年ラグビーワールドカップのベスト4だ。日本代表の世界ランキングは現在11位。サンウルブズは世界の列強にチャレンジし、日本ラグビーの未知の領域を手探りで進んでいる。その挑戦を後押しし、共に戦う楽しさ、高揚感がスタジアムには充満している気がする。

 一方で、課題は山積だ。2月25日の開幕戦のライブでは舞台装置が大がかりだったため、立見席をチケット発売後に廃止することになり、立見席での観戦を楽しみにしていたファンを失望させた。運営側も手探り状態だということだが、前向きにとらえれば、新しいことに挑戦する気概が生んだミスであり、ファンの気持ちを第一に考えた運営が必要だという教訓とすべきだろう。

 ジャパンエスアールの渡瀬裕司CEOは「ホームスタジアム、作りたいですよね」と夢を語る。サンウルブズの成功によって日本代表が強くなり、新たなファンを獲得し、専用のスタジアムにクラブハウスができ、ファンが1日中遊べる施設が整う。

 サンウルブズは、日本ラグビーの「夢」であり、「希望」である。これを失敗させるわけにはいかない。だからこそ、ラグビーファンはスタジアムに足を運ぶ。これまで、ラグビー場からは縁遠かった皆さんも、一度、観戦してみてはどうだろう。過去の日本ラグビーにはあり得なかった光景が広がっているはずだから。


村上晃一

1965年、京都府生まれ。10歳からラグビーを始め、現役時代のポジションはCTB/FB。大阪体育大時代には86年度西日本学生代表として東西対抗に出場。87年にベースボール・マガジン社入社、『ラグビーマガジン』編集部勤務。90年より97年まで同誌編集長。98年に独立。『ラグビーマガジン』、『Sports Graphic Number』などにラグビーについて寄稿。