『スラムダンク奨学金』でアメリカに挑戦する鍵冨太雅の父は元JBLの選手、親子で1on1をする『リアル沢北親子』だった!
鍵冨善宏はかつてのJBL(日本リーグ)の丸紅で活躍した選手だった。引退後は丸紅の社員となり、商社マンとしてアメリカに赴任した後もバスケットボールを続けていた。息子の太雅くんも、そんな環境の中でアメリカのバスケットボールに接しながら成長した。 自宅にフープを設置して一緒にシューティングや1on1を楽しんでいた親子。そうなると『SLAM DUNK』では、「バスケ狂」の父が、自宅の裏庭にあるコートでの1on1で息子をトッププレーヤーに育て上げた『沢北親子』のエピソードが思い出される。 鍵冨善宏に、アメリカで触れたバスケットボールの『文化』、息子である太雅くんに託す『夢』について話を聞いた。 シューティングが僕らにとってのキャッチボールでした ――ニューヨークで太雅くんがバスケットボールに親しんだ話を聞きました。父親として、どのような思いでその環境を整えたのかを教えてください。 私はバスケが好きで、JBL引退後も東京の国体チームやクラブでプレーを続けていました。そんな私ですから、アメリカに行ってもバスケットが生活の一部でした。息子にも無理強いはしなかったのですが、週末に自分の試合に連れて行ったり、公園で一緒にシューティングしていたら、自然と息子もバスケットに興味を持つようになっていました。 アメリカ生活3年目でアパートから一軒家に引っ越したのですが、ちょうどその頃、太雅に誕生日プレゼントに何が欲しいと聞くと、「リングが欲しい」と言うので、リングを買って家の前に設置してあげたら、毎日シュートをして遊ぶようになりました。そうなると私も、彼にもっとプレーできる機会をあたえてあげたい、せっかくバスケの本場のアメリカにいるんだからよりレベルの高いチャンスをと思い、ニューヨークで太雅が参加できるプログラムを探すようになりました。 ──そうして見付けたのがニューヨークの強豪チームですね。 いきなりトップチームに行くのではなく、最初はハンドリングの練習のキャンプや地域のチームに連れて行きました。そこでドミネイトできるようになって自信を付けてから、ニューヨークでもトップのチームのトライアウトを受けに行って。そこから太雅のニューヨークでのバスケットの世界が一気に広がった感じですね。 AAU(アマチュア・アスレティック・ユニオン)は毎年学年別で招待試合や州大会、全米大会をやっていて、そこが有望選手のリクルートの場にもなります。アメリカの多くのトップ選手がAAUに所属する強豪クラブでプレーしています。 太雅も小学校4年でトライアウトを受けて、ハーレムにある『リバーサイドホークス』に入団しました。入ってみて分かったのですが、ニューヨークではこういった強豪チームも、冬から春にかけてはインドアの大会、夏にはストリートの大会に出るんです。 私もニューヨークにいた時は、当時ストリートバスケに挑戦していた日本の選手と一緒にいろんな大会に出させてもらいました。それでニューヨークでのバスケット生活の幅が大きく広がったんです。 彼らはバスケットのためだけに来てストイックな生活をしていたのですが、私は大学からJBLと、ある程度恵まれた環境でやってきていました。そういう意味でも私のバスケットに対する価値観が広がりました。太雅にとっても良い影響があったと思います。彼にはインドアやストリートも『別物』という感覚はありません。子供の頃からストリートの大会にも普通に出ていましたよ。 私もそれまでストリートバスケのことはあまり知らなかったんです。でもニューヨークでは、ストリートの大会にNCAAやNBAの選手が出てくる。「こういう世界もあるのか」と思いました。 ──自宅にフープがあって、そこで親子でバスケットをやるとなると、『SLAM DUNK』の沢北親子を想像します。 シューティングが僕らにとってのキャッチボールでした。普通にただ打つだけなんですけど、楽しかったですね。1on1もやりました。初めて負けたのは息子が高3の時かな?(隣の太雅くんは「高校に入った時点で勝っていたよ」と反論) アメリカでも心も身体も負けない選手になってもらいたい ──自分の夢を息子に託す、というような思いはありましたか? 私はサイズの割にはかなり走れたし跳べたんです。運動能力では自分のサイズでは多分トップクラスだったと思います。だけど私は中学に入ってからバスケを始めたし、当時は先生からハンドリングなんかも教わりはしませんでした。本当に不器用だったんですが、サイズと運動能力だけで日本の中では最高峰のJBLまで行っちゃった。でも195cmでスピードが速いと言ってもハンドリングがなければ本当のトップにはなれません。 丸紅に入った時、アメリカ人のコーチから「君がもしアメリカで育って、ちゃんとガードとしての技術を教わっていたら、NCAAのディビジョン1でもプレーできた」と言われたんです。身体能力的にはアメリカでも通用する素材だったという褒め言葉でもあった一方で、逆に言うと技術が足りなかったということです。 だったらもし息子ができて、そして自分と同じようなサイズと運動能力があったら、そこにハンドリングとシュートがあればディビジョン1でもできるのかなと思って。もし息子がバスケットをやるのであれば、そういう選手に育ててあげたいという思いはありました。 ――高校を卒業して、またアメリカでバスケに取り組む太雅くんをどう見ていますか? 小さい頃からずっと基礎技術はしっかりしていると思ってました。一方で試合になると自分で積極的に行くところが一歩足りなくて。そこをブレイクスルーできたら一段階伸びるのにと思いつつ見ていました。最近ようやく身体ができつつあって、その弱さが消えつつあるので、そこをもっと意識して。基礎があるのは良いことだし、サイズもあるので、あとはメンタルとフィジカルをもっと強くしてもらって。アメリカでも心も身体も負けない選手になってもらいたいです。 『スラムダンク奨学金』という願ってもないチャンスをもらって、親としてもできる限りのサポートをするつもりです。あとは本当に成功できるかどうかは本人の頑張り次第。人生は一度しかないから、悔いのないようやれるだけやってほしい。そうしたら、ある程度結果はついてくると思います。 『スラムダンク奨学金』でアメリカンドリームを追う鍵冨太雅 vol.1「アメリカでバスケを」という夢を実現させるために vol.2「バスケと勉強をしておけ」という環境で勝負の1年間 vol.3 挑戦を恐れて後悔するようなことは、もうしたくない
取材=古後登志夫 構成=鈴木健一郎