文=菊地高弘

イメージ通りに体が動かなかった3年春

 ひとり、ドラフト戦線から消えてしまったな――。

 その投球を見たとき、心のなかでそうつぶやかずにはいられなかった。2016年3月に開催された春のセンバツ大会で、花咲徳栄高の本格派左腕・高橋昂也は注目投手のひとりに数えられていた。前年秋の段階では、いかにも強靭に見える体から140キロ台の剛速球と、キレのあるスライダー、フォークを武器にする「ドラフト候補」。だが、その初戦・秀岳館高戦に登板した高橋の姿には、秋の面影はなかった。

 ストレートの球速は常時120キロ台から130キロ台前半。いかにも体が重そうで動きにキレがなく、ストレートが走らないだけに変化球も苦しい。強打の秀岳館高打線に打ち込まれ、6回を投げて10安打6失点でノックアウトされた。あるスカウトは不思議そうに「本当に冬を越したの?」と言った。つまり、冬場のトレーニングを積んだのか、という意味だ。

 高橋は当時の苦悩をこのように明かしている。

「冬の間も投げ込みをして状態は悪くなかったのですが、センバツ前の実戦に入るとイメージ通り体が動かなくて、スピードも出ない。『あれ?』となって……。体の疲れなのか、なんなのか原因がわからなくて、焦りました」

 そして高橋は、こう付け加えた。「プロのことは考えられませんでした。どん底でしたから……」と。センバツで初戦敗退した後、高橋は背筋痛を発症したこともあって春の県大会の登板を回避する。ドラフトどころか、高校野球のエースとしても重大な瀬戸際に立たされることになった。

「脱力」と「心の余裕」で最後の夏に大爆発

©共同通信

 春の大会後、高橋は約1カ月のノースロー期間を設けた。最初の2週間は休養にあて、次の2週間は走り込みなどトレーニングに費やした。そして6月に入ると、ようやく高橋の状態が上向いてきた。そこには花咲徳栄高の岩井隆監督の「脱力して投げてみたらどうか」というアドバイスがあった。

 そして、マウンドを離れたことで見えてくるものもあった。高橋はこう振り返る。

「それまでは余裕がなかったのですが、周りを見られるようになりました。相手バッターを見ることができるようになったし、野手にも声をかけられるようになった。心の余裕が結果につながったのだと思います」

 上り調子で迎えた高校最後の夏、高橋は埼玉大会でまさに「快刀乱麻」のピッチングを見せつける。ストレートは自己最速の152キロを計測し、5回戦の滑川総合戦では6回参考記録ながら完全試合を達成。大会通じて37イニングを投げて被安打はわずか11。奪三振は52を数え、失点0という圧倒的な投球内容だった。

 甲子園ではやや調子を落としたものの、それでも2勝をマーク。侍ジャパンU-18代表にも選出され、宿敵・韓国戦で好投して勝利投手になっている。そして10月のドラフト会議では広島から2位指名を受け、プロ入りを果たした。高橋はどん底時代のことを思うと、プロ入りできること自体が「想像もできなかった」と振り返る。

 ドラフト会議後、指名の挨拶に訪れた広島のベテランスカウト・苑田聡彦スカウト統括部長は、高橋の太ももに目が釘付けになったという。

「かなり鍛えてきて、厚みがありました。あれは走って作ってきた太ももだなと」

 練習が厳しいと言われる広島でさらに鍛錬し、いずれは骨太なエースへ――。どん底を経験した高橋昂也のサクセスストーリーは、まだ道なかばだ。

(著者プロフィール)
菊地高弘
1982年、東京都生まれ。雑誌『野球小僧』『野球太郎』編集部勤務を経てフリーランスに。野球部研究家「菊地選手」としても活動し、著書に『野球部あるある』シリーズ(集英社/既刊3巻)がある。


BBCrix編集部