内田篤人について

名前内田篤人
生年月日1988年3月27日
日本
出身静岡県田方郡
プロフィール函南中学校時代は目立った活躍はなかったものの、将来を見据えて高校は静岡県屈指の強豪校、清水東高校へ進学。主要大会に出場こそできなかったものの、サイドバックにコンバートされたことで素質が開花。

06年に鹿島アントラーズに入団するとパウロ・アウトゥオリ監督に高く評価され、クラブ初となる高卒ルーキーのスタメン出場を果たす。4節目の甲府戦で高卒ルーキー史上最年少ゴールを決めたことで同年のオールスターにもDFでは史上最年少出場を果たす。

07年~09年のチームの3連覇を置き土産に2010年にドイツ・ブンテスリーガのシャルケ04へ移籍。その後は故障に見舞われながらもレギュラーとして活躍。日本代表にもU-16から選出され、ワールドカップにも2度出場している。176センチ、70キロ

高校時代にコンバートを経験して才能開花

サッカーどころとして知られる静岡県で生まれ育った内田篤人は幼少期からサッカーに打ち込みますが、レベルの高い地域だったこともあり函南中学校時代はさほど目立つ存在ではありませんでした。

高校入学の際にスカウトなどもなかった無名選手でしたが、内田は大学進学を視野に入れたサッカーの強豪校を目指し、サッカー強豪校としても進学校としても名高い清水東高校へ進学します。

当時、内田に与えられたポジションは右サイドハーフと右ウイング。シンプルな縦方向への突破からチャンスメークをする役割を担いますが、やはりJリーグのスカウトたちをうならせるようなプレーはできずにいました。

そんな時に監督から提案されたのがサイドバックへのコンバート。小柄な内田にはこのコンバートで台頭し、次第にスカウトたちの注目を集めるようになっていきました。

高卒1年目からパウロ・アウトゥオリ監督に見いだされる

内田篤人が在籍していた頃の清水東高校は全国大会をはじめとした主要大会には残念ながら挑むことはできませんでした。しかし、内田自体はコンバート後に高く評価されるようになり、Jリーグに所属する複数のクラブから注目されるようになっていました。

そんな内田を獲得したのが鹿島アントラーズ。中でも最も高く評価したのはこの年から監督に就任したパウロ・アウトゥオリ。当時主力だったベテラン名良橋晃から右サイドバックのレギュラーの座を奪うと、開幕戦でもスタメン出場を果たします。

鹿島アントラーズ史上初となる高卒ルーキーの開幕先発スタメンという采配を見ても内田がいかに期待されていたかがよくわかります。

そんな周囲の期待に応えるかのように彼もまた奮起。4節目のヴァンフォーレ甲府戦で内田は高卒新人最年少となる17歳11ヵ月22日のプロ初得点記録を樹立。甘いマスクで人気を集めた内田はオールスターゲームにも選出。DF部門では史上最年少で出場するなど、名実ともにスター選手の仲間入りを果たしました。

クラブ初のV3に貢献。海外も視野に

©Getty Images

翌07年。内田篤人は背番号を「2」に変更。この番号を前年までつけていたのは内田にレギュラーを明け渡し、この年からベルマーレ平塚に移籍した名良橋晃。名選手の番号をつけることになった内田ですが、この頃から「2」という番号は彼にとって特別なものになっていきました。

背番号を替えた後も内田のプレーはむしろ磨きがかかり、この年の鹿島アントラーズのリーグ優勝に貢献。翌08年にはV2の原動力になるとともにシーズンオフにはJリーグベストイレブンに選出される活躍。さらに契約更改では鹿島アントラーズと4年半という長期契約を結びました。

名実ともにチームの顔になった内田は09年も活躍。鹿島アントラーズをクラブ史上初となるV3に導いただけでなく、2年連続のベストイレブン入り。その実力はもはや日本だけでなく世界に知れ渡るようになっていました。

シャルケ04移籍後は故障とも戦うように

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国内リーグで活躍を続ける内田篤人に海外のサッカーチームも注目するようになります。中でも最も熱心だったのがドイツ・ブンデスリーガに所属しているシャルケ04。ドイツ屈指の強豪クラブが2010年の夏に内田を3年契約で完全移籍させ、内田は晴れてブンデスリーガーになりました。

ところが移籍直後、ケガに見舞われたこともあり本来のプレーができず低調な滑り出しになり、期待外れの印象を抱かせましたが、秋に復調するとすぐに右サイドバックのレギュラーを奪取。11月にはチャンピオンズリーグに出場し、アシストを決めるなど、チームに欠かせない存在になっていきました。

そしてそのチャンピオンズリーグ準々決勝、内田が所属するシャルケ04が対戦したのは長友佑都がいるインテル。欧州サッカーの頂点であるチャンピオンズリーグで日本人選手が対戦するという史上初の快挙を成し遂げました。この対決は内田の活躍もありシャルケ04が快勝。内田は試合後、記者が選ぶ準々決勝のベストイレブンに選出されました。

シャルケ04はこの後ベスト4まで進みますが、日本人選手が所属するチームとしては歴代最高の順位となりました。

翌2011/12シーズンは開幕前に負傷したことで体調が整わず、さらに新加入の選手に押し出される形でレギュラーから外されることもありましたが、後半戦からは巻き返して本来の実力を発揮します。

しかし、内田のコンディション不良はその後も続き、2012/13シーズンは扁桃腺の腫れで出遅れて後半から持ち味を発揮、しかし、前のシーズンで痛めた右太もも裏の肉離れで離脱するなどその活躍の裏には故障がありました。度重なるケガがもとでとうとう2014/15シーズンのオフには手術を敢行し、経過がよくなかったこともあり、翌2015/16シーズンは全休。しかし、2016/17シーズンがはじまった2016年12月8日、レッドブル・ザルツブルク戦で1年9ヵ月ぶりにピッチに立って復活をアピールしました。


VictorySportsNews編集部