松井秀喜について

名前松井秀喜(マツイヒデキ)
生年月日1974年6月12日
日本
出身石川県能美郡根上町
プロフィール浜小5年から少年野球チームに入り野球を始める。根上中2年の時三塁手4番をつとめ、中部大会で準優勝。1990年星稜高に進み、同年夏の甲子園の4番打者をつとめた。

1991年夏の甲子園ベスト4、同年日米韓三国親善野球の全日本高校選抜チームのメンバーに。1992年春夏連続して甲子園に出場。春は2打席席連続を含む3本塁打を放ったが、夏の対明徳義塾戦では5打席とも敬遠され、論議を呼んだ。清原(巨人)の再来と言われ、1993年ドラフト1位で巨人に入団。

1年目から一軍に上がり、9月から3番を打つ。以後、プロ野球界を代表する強打者として活躍。1994年6月実家の隣に松井記念館が設立される。1995年阪神大震災を機に“松井ホームラン基金”をスタートさせる。1996年セ・リーグMVPを獲得。1998年本塁打王、打点王の2冠を獲得。1999年日本人選手としては10年振りに40本塁打を放つ。2000年7月通算1000本安打を達成。同年本塁打王、打点王、最高出塁率を獲得するなどチームの日本一に貢献、セ・リーグMVP、日本シリーズMVP、ゴールデングラブ賞、正力賞を受賞。同年現役最高額となる年俸5億円で契約更改。2001年巨人の選手会長となる。同年5月対中日戦でプロ野球史上5人目となる1000試合連続出場を達成。同年首位打者を獲得。ベストナインは7回。愛称ゴジラ。

2003年からはFA権を行使してメジャーリーグに挑戦。名門ヤンキースでは3年連続100打点を越えるなど中軸として活躍。2009年は、ワールドシリーズMVPを獲得しチームの9年ぶりの世界一に貢献。2010年から3チームを渡り歩き、2012年現役引退。185センチ、90キロ。右投左打。1999年積極的な社会貢献活動に対し、第1回ゴールデンスピリット賞が贈られた。

NPB時代の通算成績は1,268試合、4,572打数1,390安打、332本塁打、889打点、46盗塁、打率.304。首位打者1回、本塁打王3回、打点王3回、最高出塁率3回、MVP3回。日本プロスポーツ大賞(殊勲賞,第29回)、ゴールデンスピリット賞(第1回)正力賞(第24回)、日本プロスポーツ大賞(第33回)、石川県民栄誉賞。

MLB時代の通算成績は1,236試合、4,442打数1,253安打、175本塁打、760打点、13盗塁、打率.282。

星陵高校時代、甲子園5打席連続敬遠で最後の夏を終える

松井秀喜は、体重3,960グラムという巨漢でこの世に生を受けます。保育園史上最大の園児とも呼ばれ、小学3年生からはその体格を生かして柔道を始めます。すると石川県で3位にも入り、国体強化選手にも選出されるという実力の持ち主でした。小学5年生から兄の影響もあって野球にのめり込みます。あまりに右打席で本塁打を連発しすぎる為、左打者にさせられたほど才能を大きく開花させていました。

地元石川県の星陵高校に進学すると、1年生から4番を任されて、その夏に早くも甲子園を経験します。しかし無安打に抑えられ、星陵も初戦で敗れました。2年夏も甲子園に出場し、3回戦でついに甲子園第1号を放つなどベスト4を達成しますが、世間の度肝を抜いたのは3年春のセンバツでした。

開幕試合に出場すると2打席連続本塁打に7打点、さらに2回戦でも2試合連続本塁打と怪物ぶりを発揮し、ゴジラと称されるようになります。そして極めつけは3季連続出場となった3年夏の甲子園2回戦でした。この試合で、社会問題にも発展した甲子園史上に残る5打席連続敬遠を経験しチームは敗退します。ゴジラ最後の夏はバットを振らずして終わりましたが、同時に伝説となりました。

長嶋監督との二人三脚で、球界を代表するホームランバッターに成長

高校通算60本塁打の松井秀喜は、当然ドラフトの超目玉となり4球団が1位指名で競合します。自身の希望はファンだった阪神タイガースでしたが、読売ジャイアンツが交渉権を獲得しました。クジを引いたのは翌年から監督として復帰する長嶋茂雄であり、まさに運命の糸に導かれたような瞬間でした。

王貞治が持つシーズン本塁打記録55本を超えることを期待して背番号55を与えられプロ生活がスタートしましたが、もちろん甘い世界ではありません。ルーキーイヤーでセ・リーグ新記録の11本塁打を放ちましたが一軍定着は出来ませんでした。しかし球界を背負うスターになることを信じて疑わない長嶋監督は、1000日かけて4番にするという計画で、マンツーマン指導が始まりました。

2年目からレギュラーに定着すると、原辰徳、落合博満、清原和博ら4番としての先輩たちに影響を受けながら成長していきます。1994年には、伝説の10.8決戦でも本塁打を放ちチームの優勝、日本一に貢献しました。そして1996年には、初めて開幕4番としてスタートし、自身初のMVPを獲得、そして1998年には本塁打王、打点王の2冠王となりタイトルも手にしました。

日本ラストイヤーを50本塁打&日本一で締めて、夢のメジャーに挑戦

2000年も開幕4番に座ると、一度もその座を渡しませんでした。同年は3冠王すら狙えるほど好調を維持し、全イニングフル出場で打撃3部門もキャリアハイの成績で2度目の2冠王と一段ギアをあげます。シーズン、そして日本シリーズでもMVPダブル受賞し、日米野球でも活躍すると、自身の次のキャリアでメジャーリーグでのプレーを夢見始めます。

松井秀喜にとって10年目の節目となる2002年は、日本一と3冠王を目指してスタートします。開幕早々に海外FA権を獲得し、まさに日本ラストシーズンとなることが予想されました。6月に首位に躍り出てチームの独走が始まると、後半戦は本塁打を量産します。今度こそ3冠王を獲得する勢いでしたが、最後に打率を落とし2冠王に終わりました。それでも本拠地最終戦でファンに惜別の2本塁打を放ち、巨人では王貞治以来の50本塁打に到達させます。日本シリーズでも、圧巻の4連勝で日本一を達成し、満を持して海を渡る決断をしました。

ヤンキースでもチャンスに強いクラッチヒッターとして大活躍

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2002年末にFA権を行使し、希望していたニューヨーク・ヤンキースへの入団が決定します。すでにイチローが日本人野手として成功を収めていましたが、長距離砲として通用するか大いなる注目を浴びました。

松井秀喜は開幕戦に5番打者として出場すると、初打席で初打点を挙げるタイムリーを放ち、本拠地開幕戦では満塁本塁打デビューといきなりニューヨークファンの心を掴みます。

初年度は16本塁打に終わりましたが、チームトップの得点圏打率、チーム2位の106打点をマークし、その後進んだワールドシリーズでも日本人初本塁打を放つという大活躍を見せました。2年目には31本塁打と長距離砲としても実力を示し、さらに3年連続で100打点オーバーとクラッチヒッターぶりも健在でした。

日本人初のワールドシリーズMVPを獲得し、ニューヨークの英雄に

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新たに4年で契約を延長した2006年、外野守備において左手首を骨折し日本時代から続けていた連続試合出場記録が1,768試合で途切れます。2007年は、日米通算2000本安打も達成し25本塁打、103打点と復活を印象付けましたが、この頃から両足の怪我に悩まされるシーズンが続きます。2008年は、プロ入り1年目以来の一桁本塁打に終わり、契約最終年の2009年は28本塁打、90打点と盛り返しましたが衰えが目立つようになっていました。

翌年以降の契約延長の雲行きは怪しくなりましたが、同年のポストシーズンで神がかり的な活躍を見せました。自身も本塁打を放ち6年ぶりのワールドシリーズに進出すると、世界最高峰の舞台でまさに打棒が爆発します。

第2戦では決勝本塁打、第3戦でも代打本塁打を放ち、3勝2敗と王手をかけて本拠地ヤンキースタジアムでの第6戦を迎えます。すると先制2点本塁打を皮切りに、3回、5回にともに2点タイムリーを放つなどシリーズタイ記録の6打点をマークしました。当然試合にも勝利し、9年ぶりの世界一に大貢献しました。6試合、13打数8安打3本塁打8打点と異次元の打撃成績で、日本人として初めてのワールドシリーズMVPに輝きました。

ア・リーグ3チームを渡り歩くも、通算20年で現役引退

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ニューヨークファンに愛されながらも契約延長は叶わず、2009年からの松井秀喜は1年おきにチームが変わるジャーニーマンとなります。ア・リーグ3チームを渡り歩きましたが、持病の膝の状態は改善せず、成績も年々降下してしまいました。そしてメジャー10年目を終えた2012年限りで、ついにバットを置きました。

日米通算507本塁打を記録し、日本でもニューヨークでも愛された功労者に対し、2013年、自身の恩師・長嶋茂雄とともに国民栄誉賞を受賞しました。また現役引退後もその人気は絶大であり、ヤンキースGM特別アドバイザーとしてマイナーで指導すればファンが群がり、古巣巨人のキャンプに臨時コーチとして現われると同様の状況が起こっています。


VictorySportsNews編集部