本田圭佑について
©Getty Images名前 | 本田圭佑(ホンダケイスケ) |
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生年月日 | 1986年6月13日 |
国 | 日本 |
出身 | 大阪府 |
プロフィール | 小学2年生からサッカーを始めるもユース昇格できず、石川・星陵高校に進学。17歳でJリーグ試合デビューするなど頭角を現し、高卒後名古屋グランパスエイトとプロ契約。2008年からはオランダ。
VVVフェンローに移籍するなど海外挑戦がスタートし、2010年からはロシア・CSKAモスクワ、2014年からはイタリア。ACミランとビッククラブを渡り歩く。日本代表としてもエース級で活躍し、2010年、2014年と2大会連続でワールドカップにも出場。国際Aマッチ 88試合 36得点(2016年末現在 )。星陵高校卒業。 182cm、74kg、左利き。 |
中学時代、ガンバ大阪ユースに昇格できない挫折を味わう
本田圭佑は、小学2年生から地元大阪でサッカーを始めます。それには2歳年上で同じくサッカーをしていた兄の影響も多いにありました。さらに家系をたどると、驚きのスポーツ一家であることもわかります。大叔父・本田大三郎は元日本代表のカヌー選手、さらに住兄弟の本田多聞は、3度の五輪出場経験、かつ全日本選手権8度優勝でアマレスの神様と異名をとっていた現役のプロレスラーです。
ガンバ大阪のジュニアユースで実力を発揮し、ユースへの昇格を計った少年時代でしたが当時は同年代の選手と比べスタミナ、スピード不足で実現しません。幼くして挫折を味わい、地元を離れ、石川県・星陵高校に進学しました。
星陵高校で頭角を現すと、卒業後Jリーガーとしてプロ契約
本田圭佑は、幼少期の挫折を糧に星陵高校で徐々に頭角を現していきました。2年終わりにはJリーグ・名古屋グランパスエイトの特別指定選手に選出され、ナビスコカップ含めた公式戦にも出場します。そして2005年1月、高校最後の大一番、全国高校選手権では主力選手として石川県勢初のベスト4入りに貢献し、その名を全国に轟かせました。
高校卒業時に複数のJリーグクラブからの勧誘を受け、名古屋グランパスエイトとプロ契約し入団します。この時点で海外クラブへの移籍も視野に入れており、契約にはその条項が含まれていました。そして開幕戦からスタメンデビューするといきなりアシストを決めるなど存在感を示します。決定的なパスも出せて自らも得点を重ね、チームのレギュラーとして約3年間プレーしました。
21歳から海外挑戦をスタートし、オランダ、ロシアで大成功
2008年1月、本田圭佑に海外挑戦のチャンスが訪れます。当時オランダ1部リーグ所属のVVVフェンローへの移籍話がまとまり、21歳にして海を渡りました。シーズン途中の参戦でレギュラーとして活躍するも、いきなりチームの2部降格に直面します。しかし、翌シーズンは、16得点13アシストを記録するエース級の活躍を見せて、チームの1部復帰に大貢献します。カイザー(皇帝)・ケイスケという愛称でもファンに愛され、MVPにも輝きました。
オランダ3シーズン目も1部リーグ18試合で6得点とレギュラーとして活躍していた2010年1月、今度は活躍の場をロシアに移します。多額な移籍金で、ロシア・プレミアリーグCSKAモスクワと4年契約を交わしたのでした。新チームでの開幕戦にフル出場し、挨拶代わりの決勝ゴールを決めました。そしてさらにチームでの居場所を強固なものにした大舞台・UEFAチャンピオンズリーグの試合を迎えます。1アシスト、1ゴールを決めたこのゲームは、クラブチームとしてもロシアチームとしても初のベスト8進出を決めた大一番でした。
CSKAモスクワ時代は、本来のトップ下ポジションではなく、ボランチでの起用が多くなりました。攻撃の起点となる司令塔的立場を任された本田は、途中怪我による戦線離脱などもありましたが、参戦3シーズン目に初の欧州1部リーグでの優勝を経験します。毎年のような大活躍とはいかないまでも、ロシアで過ごした4年間の間に、日本代表としての活躍も加わり、本田の名前はさらに世界に知れ渡るようになっていました。
夢のACミラン移籍を勝ち取るも、世界最高峰リーグに大苦戦中
©Getty Images本田圭佑が若い頃から成功した要因はいくつもありますが、ひたむきな努力や常人ならぬ上昇志向、そして時にビッグマウスと揶揄される発言などが挙げられます。自身へのプレッシャーとなることを恐れず高い目標を発言しては有言実行していました。その最たるものは、2013年12月に実現したイタリア・セリアAの名門ACミランへの移籍です。実は、小学生の卒業文集に、「セリエAに入団し10番で活躍する」と記していました。CSKAモスクワを契約満了で退団すると日本中が驚く移籍が発表され、希望していた背番号10すら手に入れました。
しかし世界最高峰リーグにおいては、活躍はもちろん試合出場すら至難の業でした。移籍1年目はリーグ戦でも1得点と不完全燃焼に終わります。2シーズン目は開幕から出場し6得点と意地を見せるも、3シーズン目は出場機会に恵まれないという苦難に直面します。新監督の信頼も勝ち取れない日々が続き、移籍話も取りざたされましたが、2017年現在も同チームでのプレーを続けています。
日本代表ではエースとして、ワールドカップ2大会連続フル出場
©Getty Images21歳から海外でプレーを継続する本田圭佑は、日本代表でも欠かせない存在として君臨しています。20歳にして飛び級で日本代表に選出されると、その後は常連となり2大会連続でワールドカップにも主力として出場しました。2010年の南アフリカ大会では、本来のトップ下ではなく、センターフォワードとして本戦4試合すべてフル出場を果たします。2ゴール1アシストを記録して、日本のベスト16進出に大きく貢献しました。
さらに4年後のブラジル大会も、日本人離れしたフィジカルを手に入れていた本田圭佑は全試合トップ下でスタメンフル出場します。体格の違う海外選手たちとの当たりにも負けず、日本人のワールドカップ最多得点を記録しました。しかし自身のゴールも結果的には1得点に終わり、グループリーグ3戦全敗という屈辱を味わいました。
2018年ロシア大会出場を目指したワールドカップ予選でも、まだまだ存在感を見せ付けます。2015年から2016年にかけて、ワールドカップ予選7試合連続ゴールという史上初の記録を達成します。日本の6大会連続出場に向けて貢献中であり、次期ワールドカップ開催当時は、まだ32歳の本田には大きな期待が寄せられています。
少年サッカー教室プロデュースなど後進育成にも尽力中
©Getty Imagesまだまだ現役バリバリの本田圭佑ですが、サッカー愛は尽きることがありません。自身が25歳のとき、「ソルティーロファミリアサッカースクール」をプロデュースしていました。未来のサッカー選手を育成するためのスクールであり、その数は年々増えて、2016年にはすでに日本最大級の規模にまで発展しています。
またその活動は海外にもおよび、2015年6月には本田のマネジメント事務所が、オーストリアのサッカーチーム・SVホルンの経営にも参入しました。前述のソルティーロから目指す道も作り、後進の育成ならびにサッカー界の底上げにも本気で取り組んでいます。