北斗晶について

名前北斗晶(ホクトアキラ)/本名:佐々木久子
生年月日1967年7月13日
日本
出身埼玉県吉川市
プロフィール1985年5月デビュー、新人賞を獲得。1986年全日本ジュニアチャンピオンベルトを奪取。1987年堀田由美子とのコンビでWWWA世界タッグチャンピオンとなるが、同年頸椎骨折。1988年リングネームを本名から北斗晶に変える。同年タッグリーグ戦優勝、1993年ジャパングランプリに初優勝。同年12月選手生命を賭けて神取忍と対戦、敗北し引退を表明。1994年11月引退。1995年1月レイナ・フブキという覆面レスラーとしてメキシコへ渡る。さらにアントニオ猪木の北朝鮮興行に参加して引退撤回発言をする。

得意技はノーザンライト・ボム、スピンキック。同年プロレスラー佐々木健介と結婚、同年出産のため引退するが、1999年7月後楽園で復活宣言。170センチ、60キロ。健介オフィス代表取締役。

女子高時代、ファンが高じて突然の女子プロレス界入り

北斗晶は、実家が十数代続く農家の3姉妹次女として生を受けます。明治時代から開校されていた歴史ある中高一貫校である神田女学園中学に進学していましたが、当時から熱狂的なプロレスファンでした。特に、ブル中野への想いは人一倍で、私設のファンクラブを作っていたほどでした。

神田女学園高等学校に進み、大好きなプロレス中継を見ていると、自分のほうが強いと思うようになり、家族にプロレス界入りの希望を告げます。反対する家族をよそに、高校を中退し、オーディションに向かいました。当時は、長与千種とライオネス飛鳥によるコンビ・クラッシュギャルズのブームもあって、女子プロレスは大人気でした。応募者は殺到し、1パーセントにも満たない入団テストを見事突破して、夢の入り口へとたどりつきました。

驚異の新人として王座を獲得するも、レスラー生命を脅かす大怪我を負う

当時の全日本女子プロレスは完全な縦社会であり、先輩は神様ともいえる存在でした。新人は雑用と厳しいトレーニングの毎日でチャンスは訪れないことが常ですが、持ち前の明るさで乗り切ります。しかし類稀なる身体能力を持っていたこともあって、プロテストを経ることなくデビュー戦のチャンスが舞い込みます。当時の本名・宇野久子としてリングに上がると、連戦連勝を繰り返し、気づけば最優秀新人賞を受賞します。1986年には全日本ジュニアチャンピオン、翌1987年には堀田由美子とタッグを組んで、WWWA世界タッグチャンピオンとなるなどアイドルレスラーとして一気に頭角を現していきました。

しかし、北斗晶の栄光は長く続かず、WWWA世界タッグの初防衛戦で選手生命を脅かされる大怪我を負ってしまいます。リングに向かって直角に頭から落とされ、首の骨を2本骨折しました。その後も試合を続行する執念を見せましたが、目が覚めたときは病院のベッド上でした。頭蓋骨に穴を開けるという大手術を受け、数ヶ月間の寝たきり、かつ首を動かせない生活を余儀なくされます。医者が引退を勧めるほどの大怪我でしたが、自らの意思とファンの後押しもあって、再びリングへ上がることを決意しました。

デンジャラスクイーンとして復帰するとカリスマとなる

元々大ファンで憧れだったブル中野の励ましもあり、1988年復活を遂げます。すると同期の鈴木美香と組んで出場したタッグリーグ・ザ・ベストで優勝と変わらぬ強さを見せ付けます。そして、リングネームを北斗晶に変更すると、デビュー当初のアイドルレスラーから、ヒール(悪役)へと転向しました。ノーザンライト・ボムを得意技に再度、女子プロレス界の頂点を目指すようになり、また過激なマイクパフォーマンスはファンの心を鷲づかみにしていました。

ライバルも多く、豊田真奈美やアジャ・コングらとは死闘を繰り返します。しかし首の怪我は持病となり、その後も万全の状態で試合をすることができなくなっていました。それでもドクターストップを振り払って戦う姿勢にファンは感動し、いつしかデンジャラスクイーンと呼ばれるようになります。そしてジャパングランプリ初優勝した1993年には、神取忍と女子プロレス史上に残る伝説の2試合が行われました。4月の試合は、まさに血みどろの戦いとなり、フォール勝ちして死闘を制しました。そして、女子プロレス人気は最高潮となり、神取にとってリターンマッチとなった12月、負けたら引退すると宣言して挑むも、マットに屈してしまいます。勝者である神取が引き止めるも、北斗晶は宣言どおり引退し、カリスマとなりました。

佐々木恭介と出会ってわずか40日で結婚、きっかけはアントニオ猪木

北斗晶は、実は日本国内だけの活動に留まらず、覆面レスラー「レイナ・フブキ」として1995年にはメキシコでもリングに上がっています。そして同年、異国の地で生涯の伴侶と出会うことになります。アントニオ猪木が北朝鮮で主導するイベント「スポーツと平和の祭典」に参加すると、同じく居合わせた佐々木健介が一目惚れしたのです。帰国後、佐々木が猛アプローチをしかけ、出会ってわずか40日で二人は結婚することになりました。

後に全日本女子プロレスを離れ、再びリングにあがっていましたが、1998年には長男出産のため長期休養します。しかし1999年には早くも再復帰を果たし、日本初のママレスラーとして活躍を見せました。1985年から常に第一線でしたが、2002年ついに現役引退を表明します。引退試合では、得意技ノーザンライト・ボムでフォール勝ちし有終の美を飾りました。

現役引退後は、鬼嫁キャラを確立して夫を支え、テレビ番組で大活躍

現役引退後は、しばらく主婦業に専念していた北斗晶ですが、夫・佐々木健介のサポートに尽力すべく、プロレス界に復帰します。自宅に設立した健介オフィスの代表取締役を務める傍ら、鬼嫁の愛称で夫のマネージャー役に徹しました。テレビのバラエティ番組にも多数出演するようになり、元々得意だった料理など意外な一面も披露していきます。また2012年には家族4人で24時間テレビのマラソンに参加し、見事合計120kmを完走してみせました。

突然の乳がん公表も、苦しい闘病生活を克服し仕事復帰

まさに明るいキャラクターの北斗晶が、2015年乳がんであることを公表し世間を驚かせます。乳房の全摘手術を受け、抗がん剤治療と辛い日々を送りながらも、気丈に振舞う姿をブログなどでも公表していました。現在は1年2ヶ月の時を経て仕事復帰を果たし、元気な姿を見せてくれています。


VictorySportsNews編集部