三浦知良について

名前三浦知良(みうらかずよし)
生年月日1967年2月26日生まれ
日本
出身静岡県静岡市
プロフィールサッカーの王様ペレに憧れ、ブラジルでプロサッカー選手になることを目標に15歳でブラジルへと渡る。1986年にサントスでプロとしてのキャリアを始め、30年以上が経った2017年現在も現役。代表通算91試合に出場し55ゴールを挙げている。

12年にはフットサルワールドカップに出場。Jリーグ得点王やベストイレブンにも選ばれたことがあり、ナビスコカップなどのタイトルも制覇し、個人、チームで何度も表彰されている。そんな功績から「キングカズ」と呼ばれている。

15歳で単身ブラジルへ渡り独り奮闘する日々

三浦知良は静岡県静岡市の出身です。兄は三浦康年で、読売クラブや清水エスパルスに所属していました。

1981年、カズは中学三年生の進路希望調査の際、ブラジルでプロサッカー選手になることが目標だったため志望高校を書く欄に「ブラジル」と書き担任の先生に激怒されたという逸話があります。結局、中学卒業後は高校に進学しましたが9カ月で中退し、単身サッカー王国ブラジルへと渡りました。そしてCAジュベントスというチームに練習生として入団しました。84年、ジュベントスからキンゼ・デ・ジャウーのユースチームへ移籍しました。

試合に出場すると「ジャポネース」(サッカーが下手、日本人の意味)と野次が飛び、パスを要求しても無視され、紅白戦にもまともに出場できませんでした。自信を無くしたカズは日本への帰国も考えたそうです。そんな時、道端で裸足の貧しい子どもや、片足のない体の不自由な子どもたちが楽しそうにサッカーをしているのを見て、自分の甘えや、五体満足でスパイクやボールのある恵まれた環境でサッカーができることの幸せに改めて気づき、帰国をやめて再び奮闘しました。

86年2月、カズは名門サントスとプロ契約を交わしました。日本人で初めて、ブラジルでのプロサッカー選手になりました。ブラジルでプロになることが夢でしたが、試合に出場した回数はわずか2回でした。同年10月には出場機会を求め、SEマツバラへ移籍しました。そこでの活躍が認められ20歳の時、古巣キンゼ・デ・ジャウーのトップチームからスカウトを受け、入団しました。

名門コリンチャンスと対戦した時、カズは初ゴールを決めました。このゴールを含め、3-2でジャウーが勝利し、格上相手の大番狂わせに貢献しました。これがきっかけで、三浦知良の名前はブラジルで一気に有名になりました。

翌年、コリチーバFCへ移籍し、更にその翌年の90年2月にサントスへ復帰し、活躍しました。

ドーハの悲劇を体験し、アジア人初のセリエAへ

1990年10月、三浦知良はワールドカップ出場権獲得に貢献するためにも、日本代表の選考対象になりやすい日本のヴェルディ川崎(当時:読売クラブ)へ移籍しました。92年のJリーグカップで優勝に貢献、MVPにも選ばれました。ラモス瑠偉や北澤豪たちとヴェルディ川崎の黄金期を支えました。

93年10月28日、アメリカワールドカップ最終予選最終節イラク戦でカズのゴールを含んだ1点差で日本はリードしていました。ワールドカップへ初の出場が決まりかけた試合終了間際、イラクに同点ゴールを許し2-2で試合が終了しました。最後の最後でワールドカップ出場を逃してしまったのです。カズはピッチに座り込み呆然とし、立ち上がることができませんでした。これが有名な「ドーハの悲劇」です。

94年には、ドーハでの悔しさを晴らすためにも、イタリア・セリエAのジェノアへ期限付き移籍しました。アジア人として初めての快挙でした。ジェノアで21試合に出場し、1得点を挙げ、シーズン終了後ヴェルディ川崎へ復帰しました。復帰後、リーグ得点王や天皇杯優勝など数々の実績を残しました。しかし97年、ケガの影響もあり試合に出場する機会が減り、ゴールの数も減るようになりました。

そんな中で迎えた2回目のワールドカップアジア最終予選で日本のワールドカップ初出場に貢献しました。

ワールドカップ落選から7年、長かった国際舞台

ワールドカップ出場権を決めた翌年もコンディションは悪く、ヴェルディ川崎も低迷していました。そのため親会社が事業を撤廃し、クラブは大幅な経営縮小を強いられました。その影響でカズに年棒ゼロ円提示が出され、実質的な戦力外通告となりました。そのこともあり98年、カズはワールドカップ直前で日本代表から落選しました。帰国後の会見では「代表としての誇り、魂みたいなものは、向こうに置いてきた」とコメントを残しました。

落選の悔しさを晴らすため、クロアチアのディナモ・ザクレブヘ2年契約で移籍しました。しかし、思うように活躍ができず1年で日本へ帰国することになり、99年夏に京都パープルサンガへと移籍しました。翌年にはJリーグ通算100ゴールを決めましたが京都はJ2へ降格することになり、2度目の戦力外通告を言い渡されました。

01年からヴィッセル神戸に4年間所属し、05年7月横浜FCに移籍しました。同年11月にAリーグ初のゲストプレーヤーとしてオーストラリアのシドニーFCへ期限付き移籍し、FIFAクラブワールドカップ(当時:FIFAクラブ世界選手権)に日本人で初めて出場しました。そして06年2月に再び横浜FCへ復帰するのでした。

慈善試合で日本を勇気づけた「カズダンス」

2011年3月29日、日本代表対Jリーグ選抜の東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチが開催されました。震災から1カ月も経たずして行われる試合に戸惑う選手もいました。しかし唯一、J2横浜FCから選出された当時44歳の三浦知良は「全力で今できるプレーをして、何か届けられたら」と試合出場に意気込みました。

そんな中行われたチャリティーマッチで後半17分アナウンスが鳴り響きます。「背番号11番三浦知良!」サポーターからの大声援を浴び、途中出場でピッチに登場しました。後半37分にカズは再び大声援を浴びることになります。闘莉王がヘディングでパスを送ると、ダイレクトでシュートし、ボールはそのままゴール右隅へと吸い込まれました。カズはゴール裏へと一直線に走り、ゴールパフォーマンス「カズダンス」を披露し、突き上げた右手人差し指は東北のみならず、日本中の人々を勇気づけました。

試合後のインタビューで「東北の皆さんにきっと届いた」とコメントしました。当時代表監督だったザッケローニ氏も「ゴールを決められることは嫌いだが人生で初めて決められてうれしかった」とカズのゴールを称賛しました。

50歳を迎えても現役を続ける生ける伝説

チャリティーマッチの翌年、45歳でフットサル日本代表のワールドカップメンバーに選出されました。サッカーでは果たせなかったワールドカップの舞台で4試合出場し、ベスト16入りに貢献しました。

2017年に50歳の誕生日を迎えましたが今現在も現役として活躍しています。後輩の名波浩や福西崇司たちは既に現役を引退し、監督や解説者などセカンドキャリアをスタートさせています。その一方で三浦知良は現役Jリーガーとして自身のもつリーグ最年長記録を更新し続けています。その功績はイギリスメディアが取り上げるほどです。

プロサッカー選手になって30年以上経ち、50歳を超えてもカズはサッカーを極め続けています。


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