長友佑都について

名前長友佑都(ながともゆうと)
生年月日1986年9月12日生まれ
日本
出身愛媛県
プロフィール好きな女の子にもてるため、幼稚園の時にサッカーを始める。中学校進学前に愛媛FC ジュニアユースのセレクションを受けるが不合格となり、西条市立北中学校のサッカー部へ入部。強豪東福岡高校に進学するがスポーツ推薦ではなく指定校推薦で明治大学へ進学した。大学で頭角を現しU-22日本代表にも選出されるようになる。そしてFC東京で念願のプロデビューを果たす。

2010年南アフリカワールドカップにフル出場し、半年後にはチェゼーナを経てイタリアの名門インテルへ加入した。

中学、高校時代から周りの人に恵まれていた

小学6年生の時、愛媛FCジュニアユースのセレクションを受けるが結果は不合格でした。やむを得ず地元の西条市立北中学サッカー部に入部することになりました。しかし、それが現在の長友佑都の原点となるきっかけでした。当時の顧問、井上博先生の厳しい練習によって今の持ち味でもある屈強なスタミナを手に入れました。井上先生の指導により、不良の溜まり場のようだったサッカー部は県ベスト3という成績を残しました。

母子家庭でしたが「お金のせいで子供の夢をあきらめさせたくない」と母親の支えもあり、卒業後は県外の強豪、東福岡高校に進学します。
朝早く起き、朝練の前には誰よりも早くに来て一人で走り込み、夜も練習後、居残りで誰よりも遅くまで練習をするサッカー漬けの日々を送りました。そうして高校3年生の時にはレギュラーとして、出場できるようになりました。

しかし選手として実績がなかったため明治大学にはスポーツ推薦ではなく指定校推薦で入学を決めました。

指定校推薦枠を獲得することは推薦枠が少なく、容易ではありません。ましてや明治大学ともなれば倍率が高く、厳しいはずです。自分のため、必死で働く母のためにも勉強も手を抜かず、まさに文武両道だった長友は、明治大学に入学することができました。

人生を変えたサイドバックへのコンバート

大学進学後、椎間板ヘルニアを患ったこともあり、当初は試合に出ることができませんでした。スタンドで太鼓を叩く日々が続き、あまりの上手さから鹿島アントラーズの応援団からオファーが来たこともあったそうです。

高校時代、元々ボランチとしてプレーしていた長友佑都は大学1年の終わりに現在のポジション、サイドバックにコンバートされます。これが長友の運命を大きく変えることとなりました。当初は嫌々ながらプレーしていましたが、スタミナが豊富で1対1とフィジカルも強かったため、攻守両方をこなさなければいけないサイドバックに求められる要素を満たしていました。サイドバックに転向してからは、2年生でレギュラーを獲得するようになりました。そして、全日本大学選抜やユニバーシアード代表に選ばれました。更にはFC東京からのスカウト、U-22日本代表でデビューを果たしたのです。

大学3年生の時、特別指定選手として練習に参加していたFC東京から正式入団の誘いがあり、悩みに悩んだ末、サッカー部を退部しFC東京で念願のプロデビューをしました。

壁にぶつかる度成長し、ワールドカップの舞台へ

2008年4月12日、東京ヴェルディとのダービーマッチで長友佑都はブラジル代表のフッキとマッチアップしました。フッキは身長180センチ体重85キロで前年のリーグ戦で42試合出場37得点という記録を出しています。その体格に加え、強力なシュートを放つことから“超人”という愛称で呼ばれていました。そんな超人相手に身長170センチの小柄な長友は立ち向かいました。その試合はフッキに1点決められてしまったものの長友のしつこいディフェンスはフッキをイラつかせ、試合終了間際に2枚目のイエローカードが出されフッキは退場処分となりました。試合は2-1でFC東京の勝利。フッキを完封したことで長友はさらに名を上げました。

その1カ月後、コートジボワール戦で遂にA代表デビューを果たしデビュー戦で代表初ゴール。更に1カ月後、北京オリンピックのメンバーに選出され、3試合フル出場。しかし日本代表は3戦全敗でグループリーグ敗退という結果に終わりました。

真剣勝負の懸かった国際舞台で世界のレベルの高さを知ったと同時に己の無力さを思い知らされます。しかし長友はその経験を更に躍進させる糧としました。翌年の09年、長友はFC東京のナビスコカップ優勝に貢献し、同年のJリーグベストイレブンにも選出されました。

10年に南アフリカワールドカップメンバーに入り、4試合フル出場し、日本の決勝トーナメント進出に大きく貢献しました。

イタリアへ移籍し、躍進。そしてインテルへ

ワールドカップ終了後、その活躍が認められた長友佑都はイタリアのチェゼーナへ完全移籍のオプション付きで期限付き移籍をしました。移籍金は約2億円で、日本人ディフェンダーとしては初のイタリアへの移籍となりました。

セリエA初挑戦ながら全試合スタメン出場しました。日本代表では、世界最高峰のフォワード、アルゼンチン代表リオネル・メッシを完封しました。翌年のアジアカップ決勝戦では自身の完璧なクロスで決勝ゴールをアシストし、オーストラリアに1-0で勝利し、日本をアジア1位に導きました。

アジアカップでの活躍があり、イタリアのビッククラブ、インテルからオファーが届きました。移籍が決定したのは移籍市場の閉まる1時間前で、ギリギリの契約でした。契約内容は、インテルのディフェンダー ダビデ・サントンとトレード+移籍金約4億円。シーズン終了の買い取りオプション付きというものです。

その2カ月後には日本人4人目となるUEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメントに出場を果たしました。準々決勝ではシャルケ04の内田篤人と初の日本人対決をし、大きな話題を呼びました。同年、コッパ・イタリアで優勝に貢献し、イタリアでの初タイトルを手にしました。

翌シーズンの7月、インテルから5年契約で完全移籍するとの発表がされ、正式にインテルの一員となりました。オランダ代表のスナイデルや当時キャプテンだったサネッティからも気に入られ、チームメイトから愛される存在になります。特に、長友のゴール後に披露する「お辞儀パフォーマンス」はサネッティをはじめ、サポーターからも人気がありました。その反応からも長友が皆から愛されていることがうかがえます。

常に努力を怠らず何度も逆境を跳ね返した

インテル加入当初は順調に見えましたが、自身の度重なる負傷と、相次ぐ監督の交代で思うように過ごすことはできませんでした。しかしその度に努力を重ね、イタリアでの公式戦100試合出場、ゲームキャプテンを任されるなど、次々に結果を残してきました。

2014年に迎えた自身2度目のワールドカップではグループステージで全3試合に出場しましたが1勝もできませんでした。

ワールドカップ終了後の新しいシーズンではチームの副キャプテンを務めることになりました。しかし15年のアジアカップで太ももを負傷、長期離脱を強いられました。ケガから復帰した時にはすでに長友のポジションはありませんでした。それどころかチームの放出候補となり、移籍が噂されるようになりました。それでも長友は移籍を拒否し、チームに残留することになりました。チームには残れたものの、長友に出場機会はなかなか与えられず、厳しい日々を送ることになりましたが、与えられた少ないチャンスで好アピールをすることで再びレギュラーとして返り咲いたのです。そして、17年1月にはタレントの平愛梨と結婚しました。


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