長嶋茂雄について

名前長嶋茂雄(ナガシマシゲオ)
生年月日1936年2月20日
日本
出身千葉県佐倉市
プロフィール佐倉一高時代は無名の野球選手であったが、立大進学後開花、2度の首位打者、神宮球場で本塁打8本の東京六大学新記録をつくる。

1958年巨人入団、新人王、打点王、本塁打王を獲得。勝負強いバッティングと華麗な守備でファンを魅了し、“燃える男”“ミスター・ジァイアンツ”のニックネームで親しまれる。1974年現役引退。

1975年巨人監督に就任、2回リーグ制覇するが、1980年辞任。1988年殿堂入り。報知新聞社客員のほか、ギネスブックジャパン代表、日本トライアスロン連盟(現・日本トライアスロン連合)名誉副会長などを務め、野球をはじめ、スポーツ、文化等多方面で活躍。1992年秋12年ぶりに巨人監督に復帰。1993年12月球団史上初の常務兼任となる。1994年10月に17年ぶり3度目のリーグ制覇を果たし、日本シリーズでは西武を破り初の日本一となる。同年正力松太郎賞を受賞。

1996年10月2年ぶり4度目のリーグ制覇。1997年7月監督として通算700勝を達成。現役時代の背番号は3番で、引退後永久欠番となり、監督就任以後90、33をつけるが、2000年9,252日ぶりに3番に。同年5月監督通算900勝を達成。同年9月4年ぶり5度目のリーグ制覇を果たし、日本シリーズではダイエーを破り6年ぶりに日本一となる。2001年6月監督通算1000勝を達成。同年シーズン終了後、退任。

通算成績は2,186試合、8,094打数2,471安打、444本塁打、1,522打点、190盗塁、打率.305。首位打者6回、本塁打王2回、打点王5回、最多安打10回、MVP5回、新人王、ベストナイン17回、ゴールデングラブ賞2回、バチカン有功十字勲章、正力松太郎賞、都民文化栄誉章、毎日スポーツ人賞(ファン賞)、財界賞(特別賞)。佐倉高校、立教大学卒、右投右打、178cm、76kg。

立教時代、六大学通算本塁打新記録を樹立し、巨人入り

千葉県に生まれた長嶋茂雄は、幼少期にミスタータイガース・藤村富美男に憧れるようになります。そして兄も所属していた野球チームで、小学生時代から野球を始めました。その後佐倉高校に進学し、2年から4番打者として活躍しましたが、全国的には無名の選手でした。

立教大学に進学すると頭角を現し、後に南海ホークス入りする杉浦忠らとともに立教三羽烏と呼ばれるようになります。三拍子揃った選手として5季連続ベストナインに選出される活躍を見せ、首位打者や当時の通算本塁打記録を塗り替えるなどプロ注目の的となっていました。当初は、杉浦と共に南海ホークス入りが噂されていましたが、一転して巨人入りが決定します。そして当時としては破格の契約金に、前年まで千葉茂がつけていた背番号3が与えられ念願のプロ野球選手となりました。

ルーキーイヤー、4三振スタートもあわや3冠王獲得という活躍

スーパールーキーはオープン戦から大活躍を見せ、1958年開幕戦に3番三塁手としてスタメンに抜擢されました。しかしその初戦から強烈なプロの洗礼を受けることになります。相手は国鉄スワローズのエースで、当時通算182勝をあげていた金田正一でした。4打席立ちましたが、ファウルすら1球のみの4連続三振を喫したのでした。それでもその後は、すぐにプロの水に慣れて、新人らしからぬ活躍を見せます。最終的には、打率.305、29本塁打、92打点、37盗塁という好成績で、本塁打王と打点王の二冠を獲得しました。実は同年9月に本塁打を放っていましたが、まさかのベース踏み忘れで取り消されていました。一塁ベースを踏んでさえいれば、新人でトリプルスリー達成という快挙でした。

川上哲治が現役引退し、1959年から長嶋茂雄は巨人4番の座を不動のものとします。同年は王貞治が入団した年でもあり、6月にはプロ野球史上初の天覧試合でON初めてのアベックホームランを記録し、その日長嶋の2本目のホームランはサヨナラ勝利を決める一打となりました。

タイトル独占のONコンビで前人未踏の日本シリーズ9連覇に貢献

長嶋茂雄は、ルーキーイヤーから6年連続最多安打、そして2年目から3年連続首位打者と、リーグを代表する打者に成長しました。しかし王貞治はまだホームランバッターとして覚醒しておらず、チームもリーグ連覇すら実現させていませんでした。ところが、王が一本足打法を完成させると、恐怖のONコンビが誕生します。そして1965年から前人未到のリーグ、そして日本シリーズ9連覇を実現していきました。

投高打低時代に二人の実力は抜きん出ており、打撃部門のタイトルを独占します。V9時代突入前の1963年から1974年までの12年間、打撃3部門(首位打者、本塁打王、打点王)で36人のタイトルホルダーが現われる計算になりますが、ON以外が受賞したのは首位打者で3人(4回)のみでした。もちろん本塁打と打点は王がほとんど受賞しましたが、3冠王を獲得したのは1973年、1974年の2回のみです。それ以外はことごとく、長嶋が阻止していたのでした。また対戦相手は「王シフト」を代表とする特別な守備位置や、捕手からの囁き戦略など様々な方法で、その豪打を阻止しようと試みましたが、いずれも通用しませんでした。

夢と消えた日本人野手メジャーリーガー第1号

当時は2年に一度のペースで日米野球が開催されており、実はメジャーリーグからのラブコールもありました。ロサンゼルス・ドジャースのオマリー会長は、突出した活躍を見せる長嶋茂雄を2年でもいいからレンタルして欲しいと懇願しました。しかし、スーパースターを手放すことは当然出来ず、移籍話は立ち消えます。世が世なら、日本人野手のメジャーリーガー第1号はこの時生まれていたかもしれませんでした。

魅せる野球にこだわり続けたミスタープロ野球も1974年ついに引退

ミスタープロ野球とも呼ばれた長嶋茂雄は、何よりファンを大切にし、魅せる野球を心がけていました。走攻守で大袈裟にも見えるプレーで強烈にアピールします。三振した際には、ヘルメットが脱げるようにあえて大きいサイズを使っていましたし、三塁守備でも、自分の守備範囲をはるかに超える打球を自らキャッチするほどです。また世間が注目するような試合には滅法強く、公式戦、日本シリーズ、オールスターの全てで通算打率3割以上を記録している唯一の選手です(2016年現在)。

唯一無二の存在だったプレイヤーにも、年齢から来る衰えには勝てず、V10を逃した1974年、ついに現役引退を決意します。現役最後の年は、打率.244、15本塁打、55打点に終わりますが、入団以来続けてきたベストナインだけは逃さず受賞し、ついにバットを置きました。入団から引退まで、全てのシーズンにおけるベストナイン受賞は史上唯一の記録です(2016年現在)。

監督時代は巨人史上唯一の最下位スタート、そして伝説の伊東キャンプ

長嶋茂雄は現役引退と同時に、1975年から巨人監督に就任します。しかし自身が選手として不在、さらには王の不調と、監督1年目に巨人史上初となる最下位に終わりました。そこで翌年は、張本勲をトレードで獲得し、新たにOH砲を形成するなど、チーム状況を建て直し一転してリーグ優勝に導きました。さらに翌年も連覇を飾りましたが、その後は2位、5位と強さが持続しませんでした。

そこで未来の巨人軍の基礎を創るために、若手の底上げを図ることになります。そして1979年秋に投打の若手たちを集めて行われたのが、伝説の伊東キャンプです。今でこそ秋季キャンプは普通ですが、当時としては異例であり、あまりにも厳しい内容から地獄のキャンプとも称されました。しかし肉体的にも精神的にも鍛えられた若手たちが、大きく成長し将来の巨人軍を担うことにつながりました。

国民的行事の10.8決戦、そしてON決戦も制し、2度の日本一を達成

1979年限りで監督を退きましたが、1993年から巨人軍監督として復帰します。前年オフのドラフト会議にも参加し、松井秀喜の抽選クジを自ら引き当て、その後は後継者に指名しました。そしてチームの指揮を執りながら、球界を代表する4番打者に成長させていきます。第2次政権2年目の1994年には、FAで落合博満を獲得し、プロ野球史に残る同率最終での優勝決定戦となった伝説の10.8決戦も戦います。同試合を国民的行事と命名し見事に勝利すると、日本シリーズも制し、監督人生初の日本一を達成しました。

2000年には、福岡ダイエーホークスを指揮してパ・リーグを制覇した王貞治と日本シリーズで激突し、初のON監督対決が実現されます。世間が大注目する中、見事に勝利し2度目の日本一を達成しました。2001年限りで監督を退任しましたが、同時に終身名誉監督に就任します。

2004年、アテネ五輪出場を目指す日本代表チームの監督に就任するも、本戦前に倒れます。何とか一命を取り留め、中畑清に代理監督を任せました。その後はリハビリに努める毎日を過ごしています。2013年には、自身が育てた松井と共に、国民栄誉賞を受賞しました。


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