木村拓也について

名前木村拓也(キムラタクヤ)
生年月日1972年4月15日
日本
出身宮崎県宮崎郡田野町
プロフィール宮崎南高1年の1988年、補欠として夏の甲子園に出場。高校通算30本塁打をマーク。

1991年ドラフト外で日ハムに入団。1994年一軍に定着できないままトレードで広島に移籍。二軍時代の1995年にスイッチヒッターに取り組み、1999年一軍の代打で活躍。2000年プロ10年目で初の開幕スタメン入りを果たし、その後、1番打者に定着。また、オールスターに初選出されるなど飛躍の年となった。そこから約4年間レギュラーを勝ち取り、2004年にはアテネ五輪日本代表にも選出。2006年途中からはトレードで巨人に移籍し、広島時代同様のユーティリティプレイヤーとして活躍。2009年には10年ぶりの捕手出場を果たし、同年限りで現役引退。

2010年から巨人コーチ就任も、同年4月、くも膜下出血で急死。享年37歳。愛称はタレントの木村拓哉と同じ“キムタク”。

通算成績は1,523試合、4,000打数1,049安打、53本塁打、280打点、103盗塁、打率.262。宮崎県立宮崎南高等学校卒、右投両打、173cm、75kg。

高校時代、強肩強打の捕手として活躍するもプロ指名はかからず

木村拓也は、長期にわたって地元町会議員を務めた名士の父を持ち、宮崎県に生まれます。活発な少年時代を送るも、野球が好きでたまらないという子供ではなく、父親に勧められた剣道を断る理由として野球を始めました。高校進学にあたっては野球に夢中になっていましたが、勉学に勤しんで欲しいと願う母親の思いもあって、進学校であり甲子園出場の可能性のあった宮崎南高校を選択しました。

するといきなりそのチャンスに恵まれます。1年生だった1988年夏、同校は初めての甲子園出場を実現しました。補欠としてベンチ入りするも出場はできませんでしたが、聖地での1勝もあげるという快挙も起こしました。その後、小柄ながらも強肩強打の4番捕手として活躍します。3年生では、練習試合ながら5打席連続三塁打を放つという離れ業も見せています。遠投120メートルに高校通算35本塁打という実績を残し、プロからの指名を待ちましたが、それは実現しませんでした。

ドラフト外で日本ハムに入団するも、全く目が出ずトレード移籍

1990年、強肩と俊足を買われドラフト外で日本ハムファイターズへの入団が決まります。しかしプロのスピードについていくことが出来ず、当時60人枠だった支配下登録選手に漏れて一時的とはいえ任意引退選手の扱いにすらなりました。そして1年目の一軍試合出場は1試合もなく、2年目の1992年には怪我人が出て手薄となった外野手へ転向します。

同年からの木村は、代打や代走などで出場機会を得て、プロ初安打や初盗塁などを決めていきます。1993年には29試合、1994年には83試合と増やしていきましたがレギュラーへの道ははるか遠く、1994年オフに長冨浩志投手との交換トレードで広島東洋カープに移籍が決定しました。

広島時代に、ユーティリティプレイヤーとして頭角を現す

当時の広島東洋カープの外野陣は、ほぼレギュラーが固定されていました。それも前田智徳、緒方孝市、金本知憲ら球界を代表するプレイヤーぞろいであり、加えて外国人や控えも充実していました。とても木村拓也に入る余地はなく、今度は内野守備への挑戦が始まります。中でも、長年正二塁手を務めていた正田耕三が引退間近だったこともあって、特に二塁手に目を付けて猛練習をスタートさせました。

1995年は7試合の出場でしたが、1996年には30試合と広島でも少しずつ居場所を見つけました。またそのオフにはさらに二つの挑戦を決断します。一つは両打ちのスイッチヒッターへの転向です。元々右打者であった木村は、相手投手が右投手の場合、ほとんど出場はありませんでした。そしてもう一つは、遊撃手への挑戦でした。内野手でも二塁手と遊撃手は全く異なり難しいポジションです。しかしそれをマスターする事で、内外野すべてを守れるようになり、自身はもともと捕手出身でもあったため、投手以外全てのポジションを守れるという誰も持っていない武器を手にできます。怪我が付き物であるプロ野球の世界において、ユーティリティプレイヤーを目指したのでした。この戦略は成功し、代打、代走、守備固めなど、多くの役割をこなしていきます。1998年には代打の切り札として活躍しつつ、14盗塁も記録しました。

広島でレギュラー獲得すると、アテネ五輪日本代表にも選出

1999年、まさにユーティリティプレイヤーとしてキャリアハイの90試合に出場しスタメン起用すら勝ち取っていました。そして2000年は、木村にとって飛躍の一年となります。同年はほぼ1番打者に固定されて、まさかのフル出場を成し遂げました。初の規定打席にも到達し、打率.288、10本塁打、30打点、17盗塁にリーグ最多の34二塁打と大ブレイクを果たします。そこから4年連続で130試合以上に出場し、2001年にはキャリアハイの45打点、2003年には3試合連続を含めた13本塁打と長打力も見せ付けました。

2004年には、アテネ五輪日本代表にも選出されました。シーズン途中でもあったため1チーム2名という制限があり、一人はエース黒田博樹でした。そして二人目には、ユーティリティプレイヤーという大きな特徴を持つ木村に白羽の矢が立ちました。しかしスタメン起用は1試合もなく、途中出場の2試合のみに終わります。それでも、率先して雑用やブルペンキャッチャーなど多くの雑用をこなし、日本の銅メダルに貢献しました。

巨人時代は、10年ぶりかつ突然の捕手出場でチームを救う

2004年からは怪我や若手の台頭があって出場機会が激減します。2006年は一軍登録すらされなかった為、自らトレード志願して出場機会を求めました。6月に実現しましたが、移籍先はさらに戦力が充実していた巨人でした。しかし、ここでも球界屈指のユーティリティぶりを発揮します。怪我人が出れば、どのポジションであってもソツなくこなし、時にはバットでも効果的な打点を挙げてチームの危機を救っていきます。広島時代は経験できなかったリーグ優勝を、2007年からの3連覇という最高の形で経験しました。

中でも10年ぶりの捕手を務めた2009年9月のヤクルト戦は、今後も球界史上に語られる試合となりました。先発捕手の阿部慎之助は、終盤に交代しており、残り一人だった捕手登録の加藤健が延長戦の打席で頭部死球を受けて退場するというアクシデントが起こります。動揺するベンチをよそに、木村は捕手出番を確信してキャッチャーミットを手にしていました。ランナーを出しながらも、3人の投手に対して自らサインを出し、最後は見逃し三振に抑えました。無事に無失点で12回表を凌ぎ、巨人ベンチは優勝したかのような盛り上がりとなります。試合はそのまま引き分けて、マジックを減らし見事チームの3連覇に貢献しました。

指導者人生がスタートした矢先、シートノック中に倒れ帰らぬ人となる

2009年オフ、巨人のコーチ就任を要請されて、19年間のプロ野球生活にピリオドを打ちました。巨人在籍わずか3年半にして、引退後すぐにコーチ就任は異例とも言えました。しかし、常にレギュラーではなくても、生きる術を実践した木村には指導者としての才があると見込んだ人事でもありました。

しかし指導者人生が始まって少し経過した2010年4月、まさかの悲劇が訪れました。試合前のシートノック中に、くも膜下出血のためホームベース付近で倒れます。意識不明状態が続くも、37歳という若さで静かに息を引き取りました。その22日後に行われた追悼試合では、ともに同時期に巨人に移籍してきていた親友・谷佳知が代打満塁本塁打で勝利します。ヒーローインタビューでは、亡き友人への思いを涙ながらに語りました。

※写真は2004年アテネ五輪 背番号27が木村拓也選手です。


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