中村紀洋について

名前中村紀洋(ナカムラノリヒロ)
生年月日1973年7月24日
日本
出身大阪府大阪市淀川区
プロフィール小3で野球を始める。淀川シニアでは三塁手。大阪府立渋谷高等学校2年の1990年夏4番・三塁手として甲子園に初出場。3年はエースとなるが、府大会準決勝で敗退。高校通算35本塁打。

1992年ドラフト4位で近鉄バファローズに入団。1996年、1999年から4年連続でベストナインに選ばれる。2000年にはプロ選手から初めてシドニー五輪代表に選ばれ、4位。同年本塁打王、打点王の2冠を獲得。同年リーグ最高額、プロ野球史上8人目となる年俸3億円で契約更改。2001年6月対ダイエー戦でプロ通算200号本塁打を達成。同年ローズと合わせて101本塁打を記録、打点王を獲得するなど、12年ぶりのリーグ優勝に貢献。

2004年、近鉄球団の消滅と共にポスティングシステムでメジャーリーグ挑戦を表明。ロサンゼルス・ドジャースと契約をするも、力を発揮せず1年で帰国して日本球界に復帰。以降オリックス、中日、楽天、横浜DeNAと戦力外通告の都度蘇り4球団を渡り歩く。中日時代の2007年には日本シリーズMVPを獲得。2012、2013年にはオールスターにも出場。2014年、横浜退団後も現役続行を宣言。

NPB時代の通算成績は2,267試合、7,890打数2,101安打、404本塁打、1,348打点、22盗塁、打率.266。本塁打王1回、打点王2回、最高出塁率1回、ベストナイン5回、ゴールデングラブ賞7回。

MLB時代の通算成績は17試合、39打数5安打、0本塁打、3打点、0盗塁、打率.128。渋谷高卒、右投右打、180cm、93kg。

無名の渋谷高校を、初の甲子園出場に導く大活躍

中村紀洋は大阪に生まれると、両親が野球、ソフトボールの選手だったこともあって、物心つく頃にはボールを握ります。同じく両親の影響で巨人ファンとなり、中畑清を真似してバットを格好良く放り投げる練習すらしていました。そして小学生時代に、甲子園で伝説のバックスクリーン3連発も生観戦すると、ますます野球にのめりこむようになりました。

地元中学で過ごし、高校進学には甲子園常連校ではなく、府立高校だった渋谷高校を選択しました。当時の渋谷高校は、甲子園出場経験もなくプロ野球選手も一人として輩出していませんでした。しかし、自身2年生のとき、超激戦区大阪において大番狂わせを起こします。中村は、4番、投手兼三塁手としてチームの主力を担い、派手さはないものの府大会を勝ちあがっていきます。そして渋谷高校として初めて決勝の舞台にたどりつきました。相手は前年に春夏連続で甲子園に出場し、全国準優勝すら飾っていた上宮高校でした。誰もが渋谷高校の劣勢を予想しましたが、まさに獅子奮迅の活躍を見せます。先制2ランアーチを叩き込むと、2打席連続でまたしても2ランを放ちリードを奪います。そして4回からはリリーフとしてマウンドに上がり6-4で勝利しました。母校としては初、そして府立高校の出場も8年ぶりという快挙でした。さすがに甲子園では初戦敗退しましたが、中村はまさにたった一人でチームを甲子園へと導きました。

近鉄いてまえ打線の中心的存在で2冠王、リーグ優勝に貢献

高校3年夏は、準決勝で大阪桐蔭に敗れましたが、同年のドラフト会議で近鉄バファローズから4位指名されます。いきなりルーキーイヤーに2本塁打こそ記録しましたが、入団2年間はほぼ二軍暮らしでした。しかし4年目に、20本塁打とホームランバッターとして頭角を現すと、翌年からはレギュラーに定着します。1998年には本塁打30本の大台もクリアして、近鉄いてまえ打線の中で、どんどん存在感を高めていました。

1999年以降、中村紀洋はリーグを代表する打者へと成長していきます。1999年初めてフル出場し、31本塁打、95打点と抜群の打撃力を示し、あわせて三塁手としての堅い守備力でゴールデングラブ賞も受賞しました。2000年には、39本塁打、110打点で初タイトルを2冠王で決めますが、チームは2年連続の最下位に沈んでいました。同年はシドニー五輪野球代表にも選出され、日本の4番として39打数12安打2本塁打8打点と好成績を残しました。こうした活躍で同年オフには、メジャーに移籍したイチローに代わってパ・リーグ日本人最高年俸も手に入れます。そして2001年、その打棒がついにチームの優勝に結びつきます。タフィ・ローズと恐怖の3,4番コンビを形成し、二人で101本塁打、263打点という驚きの成績を残しました。近鉄投手陣はリーグワーストだったにも関わらず、自らがリードして自身初のリーグ優勝を経験しました。

近鉄球団消滅のタイミングでメジャー挑戦も不完全燃焼に終わる

2002年、FA権を取得した中村紀洋は、メジャー移籍を視野に入れます。同年一度はニューヨーク・メッツとの合意に至るも、契約を白紙に戻すという事もありました。このまま日本球界での活躍が続くのかと思われましたが、2004年、所属する近鉄バファローズが球団消滅したのを機に、ポスティングシステムを行使します。ロサンゼルス・ドジャースが落札し、ついに日本が誇るスラッガーのメジャー挑戦が始まりました。

しかし、日本時代と違いほとんどその実力を見せられませんでした。メジャーでプレーしたのはわずか17試合で自慢の本塁打は1本も打てず、マイナー生活が続きました。結局、2005年の1年限りで再び日本球界復帰を決断しました。

育成契約スタートの中日時代、復活して日本シリーズMVPを受賞

帰国時点で32歳だった中村紀洋は、古巣近鉄が吸収された形となったオリックスへの復帰を果たします。しかし、かつてリーグ最高年俸だったプレイヤーにとっては、茨の道が続きました。オリックス時代は、故障で出場試合数は100試合にも満たず、1年限りでまさかの自由契約となります。2007年に入っても所属球団が決まらないという無職状態が続いていました。

救いの手を差し伸べたのは、中日ドラゴンズ監督をしていた落合博満でした。しかし、大金をはたいての獲得ではなく、入団テストに合格しての勝ち取った育成枠です。1年前のオリックス入団時は年俸2億円だった男が、一気に400万に落ちての再スタートとなりました。初めてハングリーさを持って挑み、まずは支配下選手契約を締結します。2007年シーズンが始まると野球が出来る喜びを結果で表現していきました。後半戦では3番に定着するほどに打撃を復活させ、圧巻は同年の日本シリーズでした。本塁打こそ出ませんでしたが、4本の二塁打を放ち、涙のシリーズMVPを受賞します。これが、中村が現役時代で経験した唯一の日本一となりました。

4度の戦力外通告も、最後まで生涯現役を貫き通す

2008年も中日で、24本塁打、72打点と活躍すると2度目のFA権を行使します。そして翌年からは再びパ・リーグへ戻り、東北楽天ゴールデンイーグルスとの2年契約をスタートさせます。しかし、中村紀洋に再び暗雲が立ち込めます。持病の腰痛が悪化し成績不振も重なり、1年目は大きく期待を裏切る形となりました。2年目は129試合に出場、規定打席にも到達し13本塁打、64打点を残します。それでも年齢から来る衰えを隠せないようになり、球団から契約延長を勝ち取ることが出来す、人生2度目の無職状態となりました。

12球団トライアウトには参加せず、ひたすら自主トレを行い、他球団からのオファーを待つ日々が始まります。そして2011年が始まった5月、右の代打不足だった横浜DeNAベイスターズが中村にオファーを出しました。奇しくも、かつて自身がフォームを真似た中畑清が同年からチームを指揮していました。途中参加となった同シーズンは、主に代打として出場します。2012年には、代役ながら開幕4番スタメンで出場するなど、多くのチャンスに恵まれます。かつての豪打は鳴りを潜めましたが勝負強さは健在でした。そして同年から2年連続でオールスター出場してともに賞を獲得、2013年には通算2000本安打、400本塁打を達成と意地をみせました。

2014年、チーム批判とも取れる言動のため登録抹消されると、同年戦力外通告を受けます。自身は現役続行を表明し、引退を公言してはいませんが、実質引退状態が続いています。中村は生涯現役を明言しつつも、育成にも興味を示し、2017年には浜松開誠館高校野球部非常勤コーチに就任しています。

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