鈴木尚広について

名前鈴木尚広(スズキタカヒロ)
生年月日1978年4月27日
日本
出身福島県
プロフィール福島県で生まれ、5歳から野球を始める。中学時代には陸上部で俊足に磨きをかけて、地元相馬高校に進学。高校時代は甲子園出場経験無し。1997年ドラフト4位で巨人に入団。入団からの5年間は怪我が多く、全て二軍で過ごす。しかし、この間にスイッチヒッター転向、走塁技術も向上させ、2001年内野手から外野手に転向。2002年初の一軍昇格を果たす。

2005年から12年連続二桁盗塁を記録し、代走のスペシャリストとして唯一無二の存在となる。2008年は、途中1番打者に定着して、外野手ゴールデングラブ賞を受賞。2015年、19年目にして初のオールスター出場。2016年には歴代1位の通算盗塁成功率.829を達成。同年のクライマックスシリーズ第3戦で牽制死に終わり、同年オフ現役引退を表明。通算盗塁成功率歴代1位、代走盗塁数歴代1位。著書に、『Be Ready ~準備は自分を裏切らない~』 (扶桑社新書)、『失敗する事は考えない』(実業之日本社)。

通算成績は1,130試合、1,339打数355安打、10本塁打、75打点、228盗塁、打率.265。ゴールデングラブ賞1回。相馬高卒、右投両打、180cm、71kg。

相馬高校時代は投打に活躍するも、夢の甲子園出場はならず

鈴木尚広は福島県に生まれ、5歳から野球を始めました。当時、野球センスはそれほどではありませんでしたが俊足という特徴は早くも突出していました。中学時代には陸上部に所属し、毎日30キロ近くの走り込みをしたことで、さらに足力に磨きがかかりました。高校進学にあたっては、強豪校からの誘いを断り、地元で通学時間がわずか30秒の距離にある相馬高校を選択しました。

相馬高校では1年目秋から主力を務めます。遊撃手として上位打線に座り、さらに試合の終盤にはリリーフとしてマウンドにも上がっていました。福島県秋季大会では、次々と勝ち抜き準優勝を収め、相馬高校としては創部後初めて東北大会まで進みました。東北大会でも強豪校を撃破したため、2年目夏は第4シードに入り大いに期待されましたが、その期待に応えられませんでした。3年最後の夏も3回戦で破れ、結局甲子園には全く縁がありませんでした。

巨人入団後は、二軍での長い下積みを強いられる

鈴木尚広は、1996年ドラフト会議で読売ジャイアンツから4位指名を受けて内野手として入団します。高卒ルーキーのため、まずは二軍で経験を積むという方針となりましたが、その期間は実に5年と長くなりました。その大半は、怪我を繰り返したことが大きな原因だったため、自身で大きな決断をします。まだ若手で低年俸だったにもかかわらず、その半分近い金額をトレーナー契約に投じ、身体のケアに努めました。

また一軍に上がる為に様々な取り組みを開始します。自慢の俊足を生かす為に、右打ちからスイッチヒッターや左打ちに挑戦しました。さらに内野手から外野手へ転向し、高田繁2軍監督、緒方耕一守備走塁コーチの元、走塁技術の向上にも励みます。こうした地道な努力は徐々に実を結び、入団5年目は、イースタンリーグ2位の27盗塁を記録し、初めて怪我で離脱することなくシーズンを終えました。

原監督時代、代走のスペシャリストとして一軍に定着

2002年、原辰徳が巨人監督に就任すると、鈴木尚広に転機が訪れます。コーチ時代にそのスピードに惚れていた監督は、鈴木を代走屋として初めて一軍に抜擢しました。そして開幕後まもない4月に、ついに初盗塁を決めました。翌年はさらに飛躍します。レギュラー内野手の怪我離脱によって、二塁手や外野手としてスタメンに抜擢されるようになり104試合に出場しました。18盗塁と一気に盗塁数も伸ばしましたが、特筆すべきは成功率です。同年の盗塁死はわずか一つと成功率9割をゆうに超えていました。

堀内恒夫監督時代の2年間(2004年-2005年)は、出場機会を減らしましたが、再び原監督が就任すると起用され始めます。2006年には25盗塁を記録、そして2007年には、11年目にして初の開幕スタメンの座も獲得しました。2008年後半には1番打者として定着し、自身初の30盗塁と大台に乗せ、規定打席には足りなかったものの打率.304とバットでも貢献します。また俊足を生かした外野守備でも初のゴールデングラブ賞受賞とまさに飛躍の一年となりました。

2003年から2009年まで7年連続でチームトップの盗塁数を記録しました。この頃から試合終盤に、「代走・鈴木尚広」が告げられオレンジの手袋を付けてグラウンドに現われると、巨人ファンが大いに沸くのはお馴染みのシーンとなっていました。

プロ19年目、37歳にして初のオールスター出場し、見事2盗塁

鈴木尚広は、強打者揃いの巨人軍において、機動力を使える唯一無二の存在となりました。その裏には、毎日の入念な準備がありました。ナイターの場合、試合開始は午後6時ですが、鈴木は誰よりも早く午前中にグラウンドに姿を見せて、トレーニングを開始します。こうした毎日の準備は、両親の背中を見て学んだものでもありました。鈴木の両親は地元福島で精肉店と焼肉店を経営し、実に30年以上も無休で店をあけています。毎日の準備は、怪我のない身体作りにも一役買っていました。

そして、2015年その両親が唯一店を閉める日が訪れます。セ・リーグ監督の原辰徳は、最後の監督推薦枠で鈴木を指名しました。鈴木はプロ19年目にして、初めてオールスターゲームへの出場が決まったのでした。1986年の川藤幸三(阪神)と肩を並べる最遅記録でした。そして両親が観戦する中、2試合とも代走として出場した鈴木は、見事に2盗塁を決めて親孝行をしました。

大一番での牽制死が現役生活最後のプレーとなる

2016年も、代走のスペシャリストとして起用され、12年連続二桁盗塁を記録します。そして通算228盗塁を成功させた瞬間、広瀬叔功(元・南海ホークス)の記録を抜き通算盗塁成功率歴代1位に浮上しました。さらに同年は、自身初の盗塁成功率100%も記録し、まだまだ貴重な戦力であることを自ら証明しました。

しかし、同年のクライマックスシリーズでまさかの事態が起こります。シーズンを2位で終えた巨人は、日本シリーズ出場権をかけて3位横浜DeNAベイスターズとの短期決戦に臨みました。1勝1敗で迎えた最終の第3戦は3-3の同点で9回を迎えます。そして9回裏、先頭打者が内野安打で出塁すると、高橋由伸監督は迷わず代走・鈴木という切り札を使いました。これまで誰もが盗塁を期待する場面でことごとく決めてきましたが、まさかの牽制タッチアウトを喫します。一気にリズムを失ったチームは延長戦で破れ、シーズンが終わりました。そして同時に鈴木にとって、これが現役最後のプレーとなりました。周囲からするとあまりにも早い引退でしたが、38歳にして突然にスパイクを置きました。

神の足とも言われ、巨人でも歴代3位の228盗塁を記録しました。通算盗塁成功率82.9%、代走での盗塁数132個はともに日本プロ野球記録として燦然と輝いています。200盗塁以上を記録して、ただの一度も規定打席に到達しなかったのは、鈴木ただ一人というのが代走のスペシャリストということを物語っています。


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