田中賢介について

名前田中賢介(タナカケンスケ)
生年月日1981年5月20日
日本
出身佐賀県
プロフィール東福岡高1年から1番打者としてレギュラーで活躍し、2年連続夏の甲子園出場に貢献。

2000年ドラフト2位で日ハムに入団。すぐに打撃力を披露するも不安定な守備のため、一軍と二軍を行き来することが数年間続きます。プロ7年目の2006年、守備の課題を克服して二塁手レギュラーを奪うと、以降リーグを代表する二塁手に成長。主に2番打者として2年連続リーグ最多の犠打も記録。2010年には、193安打でリーグ2位の打率.335、リーグトップの得点圏打率.419、34盗塁など打撃、走塁でも大きく頭角を現す。2006年からは4度のリーグ優勝、1度の日本一に大貢献した。

2013年からは、海外FA権を行使してメジャーリーグ挑戦。しかし2年間で15試合出場、8安打に終わる。

2015年からは古巣日本ハムに復帰。即レギュラーの座を獲得して、2016年にはフル出場して、チームの日本一に貢献。

NPB時代の通算成績は1,356試合、4,747打数1,350安打、45本塁打、444打点、192盗塁、打率.284(2016年まで)。ベストナイン6回、ゴールデングラブ賞5回。

MLB時代の通算成績は15試合、30打数8安打、0本塁打、2打点、2盗塁、打率.267(2016年まで)。東福岡高卒、右投左打、176cm、76kg。

東福岡高校時代、3度甲子園に出場するも松坂大輔には完敗

田中賢介は福岡県に生まれ、小学2年生から「二日市ボーイズ」で野球を始めます。中学から硬式野球を始め、当時はまだ野球ではそれほど名が知られていない東福岡高校に進学しました。一学年上に村田修一を擁し、自身2年生だった1998年春にはチームとして選抜初出場を果たします。エース村田を中心に、春夏含めた甲子園初勝利をあげると、3回戦では怪物・松坂大輔がエースを務める横浜高校と対戦しました。同試合で、松坂から1安打を放ちましたが、チーム全体では2安打13奪三振に抑えられて、0-3で完敗しました。さらに同年夏、3年夏と3度の甲子園に出場し、15打数4安打の成績を残しましたが、ともに初戦敗退となりました。

ドラフト2位で日本ハム入団も、不安定な守備で一軍に定着できず

高卒選手ながら高い評価を受けた田中賢介は、日本ハムファイターズからドラフト2位指名を受け入団します。しかも、3球団が競合しての2位指名でした。その打撃センスは高く、イースタンリーグでもいきなりリーグ8位の打率.313という好成績を残しました。一軍でも初安打を記録し、2001年は開幕戦にも代打で出場しプロ初本塁打を放つなど非凡な才能を披露します。

その後は3番打者にも抜擢されましたが、一軍に定着はできませんでした。田中の大きな課題は送球難だった内野守備であり、それが一軍二軍を行き来する原因となっていました。イースタンリーグでは、3割に近い打率や、2005年には16本塁打など長打力を披露しますが、守備力は上がらず、いつしか入団から6年の歳月が過ぎていました。

不動の二塁手レギュラーに定着して、4度のリーグ優勝に貢献

しかし、2005年から球団OBで守備の名手でもあった白井一幸の指導を受けると、課題だった守備が安定します。そして2006年開幕一軍入りを果たすと、5月には二塁手レギュラーとして2番打者に固定されました。同年は初めて規定打席にも到達したばかりか、打率.301、21盗塁、そしてリーグ最多の34犠打を記録します。ともに初となるベストナイン、ゴールデングラブ賞も獲得し、一気に花を開かせました。同年、チームは25年ぶりにリーグ優勝を実現します。さらに、田中がシリーズ最多の6犠打をしっかり決めた日本シリーズでも勝利を収め、44年ぶりの日本一にも輝きました。

2007年以降、田中賢介は日本ハムレギュラーを不動のものとします。同年、フル出場を果たして、リーグ新記録の58犠打も記録するなど2年連続のリーグ優勝にも貢献します。2009年から選手会長に就任し、3年連続フル出場を達成して、31盗塁にリーグ最多の79四球とチームへ貢献し続けます。2010年には、さらに打撃開眼してキャリアハイの193安打を放ち、リーグ2位の打率.335、34盗塁、リーグトップの得点圏打率.419と好成績を残しました。2011年には、骨折で後半のシーズンを棒に振りましたが、2012年には自身3度目の打率3割達成と完全復活します。二塁手レギュラーとなって以降、ベストナイン、ゴールデングラブ賞をそれぞれ5度獲得とリーグを代表する内野手に成長しました。この間、チームは4度リーグ優勝をしており、入団当初は大きな課題だった守備も遊撃手・金子誠とともに中日の「アライバ」(荒木雅博、井端弘和)に匹敵するまでとなりました。

メジャー挑戦するも、内野手としては通用せず15試合出場に留まる

2012年、日本一を置き土産に海外FA権を行使してのメジャーリーグ挑戦を表明します。そして田中賢介は、サンフランシスコ・ジャイアンツとマイナー契約を交わし、海を渡りました。当初は内野守備で失策を繰り返し、なかなかメジャー昇格を実現できません。しかし左翼手へのコンバート後に、高打率に俊足を披露してチャンスを掴みました。2013年7月、田中はメジャーデビューを果たします。メジャー初安打も記録し15試合に出場しましたが、同月にマイナー宣告を受けてしまいました。以後の昇格は見送られましたが、マイナーではリーグ3位の打率を残し存在感を示しました。

2013年9月ジャイアンツから戦力外通告を受けましたが、打撃とスピードに自信をつけた田中は、ベネズエラのウィンターリーグを経て、テキサス・レンジャーズとマイナー契約を交わしました。マイナーで結果を残してメジャー昇格を目指しましたが、その夢は叶わず2014年7月に自ら契約を解除します。結局、田中のメジャー成績は、15試合で8安打という不本意な成績に終わりました。

古巣日本ハムに復帰すると、不動のレギュラーとして日本一に貢献

夢破れた田中賢介でしたが、まだ33歳と若く、2015年シーズンから古巣の日本ハムに復帰しました。田中の渡米後に二塁手を務めていた若手の西川遥輝を外野手に追いやり、自身がレギュラーとして出場します。メジャーでは酷評された守備も無難にこなし、堅実な打撃力は健在でした。しかも同年はチャンスに滅法強く、5月以降は3番に固定されるほどでした。年間通じて、得点圏打率.346と高い数字をキープし、4本塁打ながらキャリアハイの66打点をマークしました。チームは、ソフトバンクに大差をつけられる2位でシーズンを終えましたが、自身は日本球界復帰後すぐにベストナインを獲得するというシーズンを送りました。

2016年シーズンも不動の二塁手として、2番、3番、5番と多くの打順を経験します。35歳とベテランの域に達したシーズンは、前回の日本一を唯一知るレギュラー選手としてナインを牽引しました。同年は、二刀流・大谷翔平の活躍もあり、中盤からソフトバンクを猛追します。田中も、8年ぶりにフル出場を達成して22盗塁などを記録するなど貢献しました。そして最大11.5ゲーム差を大逆転してリーグ優勝を飾り、日本シリーズでも広島東洋カープに2連敗後の4連勝で10年ぶりの日本一を経験しました。2017年には、通算1,500安打を射程圏に捉えています(2016年現在で、日米通算1,358安打)。


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