内川聖一について

名前内川聖一(ウチカワセイイチ)
生年月日1982年8月4日
日本
出身大分県大分市
プロフィール大分県で生まれ、小学2年生から野球を始める。父が監督を務める大分工へ進学し、2年夏までは病魔に苦しめられる。自身3年の2000年、夏の甲子園大分県大会で準優勝。

2001年ドラフト1位で横浜に入団。当初は代打要員、また守備位置を転々とする準レギュラーが続きました。しかしプロ8年目の2008年、打撃フォームを変えたことが功を奏し、打率.378とセ・リーグ右打者の歴代最高打率で首位打者を獲得。2009年第2回WBCでも攻守に活躍して日本の連覇に貢献。2010年まで3年連続で打率3割を達成した。2010年オフ、FA権を行使して福岡ソフトバンクホークスへ移籍。2011年、史上2人目の両リーグ首位打者を達成して、チームの優勝、日本一に貢献。以後も安定した打撃を続け、7年連続打率3割を達成。2015年からは、ホークス4番に定着し同年のリーグ優勝に貢献。

通算成績は1,696試合、6,114打数1,896安打、164本塁打、836打点、37盗塁、打率.310(2016年まで)。首位打者2回、最多安打2回、最高出塁率1回、MVP1回、ベストナイン5回。大分工業高校卒、右投右打、182cm、73kg。

病魔に苦しめられるも、わずか1年で43本塁打を積み上げる

内川聖一は、1982年大分県で生を受けます。父親が高校野球の監督をしていたこともあって、実に1歳にしてボール遊びをしていました。小学2年生から本格的に野球を始め、中学時代もクラブチームでプレーすると地元でかなり名を馳せるようになります。そして父が監督を務めていた大分工業高校へ進学します。親子鷹として夢の甲子園を目指すはずが、まさかの病魔に苦しめられます。左足かかとに穴が空き、液体がたまるという骨嚢腫という病に襲われました。1年次の9月から、3度の手術を余儀なくされ年内まで入院します。さらに、野球はおろか寝たきりの状態が続き、再びグラウンドに立てたのは2年次の夏でした。

ようやく自身の高校野球が始まった内川は、わずか1年で43本塁打を放つなどあふれる才能を存分に披露していきます。最後の夏は甲子園を目指す予選大会に主将として挑み、決勝戦までたどりつきましたが、最後の1勝を前に力尽きました。それでも、プロスカウトをうならすには十分な時間でした。内川はドラフト会議を前にして12球団全てにマークされるほどになっていました。

ドラフト1巡目指名で入団するも、準レギュラー扱いが続く

内川聖一は、まだ足の状態が万全ではなく、父と同じく法政大学進学も考えていました。しかし、2000年ドラフト会議で横浜ベイスターズから1巡目指名を受けると、一転してプロ野球入りを決断します。高校時代もある意味遅咲きでしたが、プロに入って第一線で活躍するまでにかなりの年月を要することになりました。2年目から代打として一軍試合出場が多くなりますが、故障も多くレギュラー獲得までは至りません。

2004年には初めての開幕スタメンの座を掴み、二塁手として多く出場します。キャリアハイを大幅に更新する17本塁打を放つも規定打席に届きません。翌年は、外野手に回されるも守備力が低く、再び代打に甘んじる日々が続きました。その後も、守備位置を転々とし、一軍には定着するものの規定打席には毎年到達しない、いわゆる準レギュラーの域を出ることが出来ませんでした。出場機会を与えられると、流石のバットコントロールで非凡なところを披露するも、爆発しきれないまま7年という歳月が過ぎていました。

打撃開眼した8年目、初の首位打者となり、第2回WBCでも大活躍

伸び悩む時期が続いた内川聖一は、並々ならぬ信念を持って8年目の2008年に臨みます。また同年、横浜の打撃コーチとなった杉村繁のアドバイスで、打撃スタイルを180度変えました。それまでの「球を前で捉える」フォームから、逆に、「引き付けて打つ」フォームに変えると、面白いように安打を量産します。一塁手のレギュラーとして固定され、打率4割すら実現しそうなほど好調は続きました。終わってみれば、セ・リーグ右打者として歴代最高の打率.378で初の首位打者に輝きます。同年は2年連続本塁打王の村田修一、30本塁打91打点の吉村裕基と3人でクリーンナップを組み、破壊力はリーグ屈指となりましたが、チームは最下位に沈みました。

一気に安打製造機となった内川は、2009年第2回WBCにも日本代表に選出されます。6試合に出場し、18打数6安打、1本塁打、4打点と活躍しました。また決勝の韓国戦では、左翼手の守備でもチームを救うビックプレーを見せるなど日本の連覇に大きく貢献しました。帰国後のシーズンでも、好調を維持し打率.318、17本塁打、66打点をマークします。2010年には初のフル出場を果たして、3年連続打率3割を達成しました。

FA移籍一年目に、首位打者にMVPを獲得して自身初の日本一を経験

自身の成績とは裏腹にチーム状況は一向に上がりません。横浜は2008年から3年連続で最下位でシーズンを終えます。WBCで優勝を経験した内川聖一は、チームでも優勝を味わいたいという思いが強くなっていました。そして2010年オフ、FA権を行使します。そして地元九州・福岡に本拠地を持つ福岡ソフトバンクホークスへの移籍を決断しました。

ホークスは前年に7年ぶりのリーグ優勝をしており、内川が求めるチーム像にはぴったりでした。しかし、セ・リーグ右打者最高打率の看板を引っさげて移籍する以上、不本意な成績を残すわけには行きません。新しいユニフォームをまとい、高い意識でシーズンに臨むと、4月月間MVP獲得という好スタートを切ります。さらに交流戦でも、チームを優勝に導くMVPに輝くなど、成績でチームをリードします。チームは、序盤に首位に立つとリーグを独走し、2位に17.5ゲームという大差をつけて優勝を飾りました。内川も途中怪我で欠場もありながらも、打率.338で首位打者(両リーグ獲得は史上2人目)とMVPを受賞と、まさに面目躍如の活躍でした。同年のホークスは、8年ぶりに日本シリーズも制し、内川は移籍1年目を最高のシーズンとしました。

日本シリーズMVP獲得、2015年からはホークス4番に定着

移籍2年目以降も、内川聖一は安定した成績でチームに不可欠な存在となりました。安打製造機ぶりに磨きがかかり、横浜時代の2008年から7年連続で打率3割を達成しました。2014年には、再びリーグ優勝を実現し、日本シリーズでは自身がMVPを獲得して、日本一に登りつめました。

2015年、工藤公康が監督に就任すると、李大浩の移籍によって不在となった4番打者に内川を指名します。見えないプレッシャーにバッティングを崩し、8年連続の打率3割の達成はできませんでしたが、キャプテンとして2年連続のリーグ優勝に貢献しました。しかしまさかの肋骨骨折が判明して、日本シリーズは欠場を強いられます。4番不在となるも、一丸となったホークスは21世紀初の2年連続日本一を飾りました。2016年は、再び4番としてシーズンを過ごし、8度目の打率3割を達成し、自身初の100打点越えとなる106打点と主力として大きな仕事をしました。しかしシーズン中盤まで独走していたチームは、日本ハムにまさかの大逆転を喫し、3年連続優勝の実現はできませんでした。2017年も、不動の4番としてスタートし、残り104本に迫った通算2000本安打達成も射程圏に捉えています。


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