井口資仁について

名前井口資仁(イグチタダヒト)
生年月日1974年12月4日
日本
出身東京都田無市
プロフィール国学院久我山高で甲子園に出場。青山学院大学に進み1年春からベンチ入り。1994年東都大学野球で1985年以来史上2人目の4試合連続本塁打を達成。1995年同リーグでの通算本塁打が21本となり、27年ぶりに東都大学リーグの記録を破る。また、年間12本塁打は新記録。アマ全日本にも選ばれる。1996年主将。リーグ史上8人目の100安打を達成。同年青学大は2回目の大学日本一となる。リーグ通算24本塁打。アトランタ五輪では銀メダルを獲得。

1997年ダイエーを逆指名してドラフト1位で入団。デビュー戦で満塁ホームランを放つという史上初の快挙を成し遂げる。2001年登録名を忠仁から資仁に変更。同年盗塁王、ベストナインを獲得。2003年は42盗塁で2度目の盗塁王、109打点でチームに貢献し、日本一を達成。

2005年からは活躍の場をメジャーリーグに移し、シカゴ・ホワイトソックスでいきなりワールドチャンピオンに貢献。3年目途中にフィリーズに移籍すると2008年2個目のワールドチャンピオンリングを手にする。2009年からは日本球界に復帰して、千葉ロッテと契約。2010年には、リーグ2位の103打点と活躍し、シーズン3位からの日本一に貢献。2013年、日米通算2000本安打を達成。2016年途中からパ・リーグ最年長選手となるも、精神的支柱として活躍中。

NPB時代の通算成績は1,850試合、6,389打数1,730安打、249本塁打、1,002打点、176盗塁、打率.271(2016年まで)。盗塁王2回、ベストナイン3回、ゴールデングラブ賞3回。

MLB時代の通算成績は493試合、1,841打数494安打、44本塁打、205打点、48盗塁、打率.268(2016年まで)。青山学院大学卒、右投右打、176cm、84kg。

青学時代、東都リーグ通算本塁打記録を塗り替える大活躍

井口資仁は東京に生まれ、小学4年生から野球を始めました。そこから、一貫して捕手を務め、中学時代には全国大会に出場するほど野球を上達させます。国学院久我山高校に進学すると、内野手に転向して甲子園を目指します。すると2年夏に、昭和56年以来2度目の甲子園出場を見事に決めました。そして春夏通じて初勝利を目指して、池田高校(徳島)と対戦します。0-4から終盤に粘りを見せて追いつきましたが、延長戦で力尽きました。2年秋からはチームのキャプテンを務めましたが、残り2度のチャンスは生かせませんでした。

高校卒業後は青山学院大学に入学します。すると1年生時に後のチームメイト小久保裕紀が主将をつとめ、青学史上初の全日本選手権優勝を経験します。翌年からは、井口の打者としての才能がさらに開花し、2016年現在でも史上唯一の記録である3冠王を獲得しました。さらにリーグ新記録の年間12本塁打を放つなど、大学通算24本塁打という新記録を樹立します。アトランタ五輪でも日本代表として、福留孝介、松中信彦、今岡誠、谷佳知らとともに日本の銀メダル獲得に貢献しました。1996年ドラフトでは注目の一人となり、小久保と同じ福岡ダイエーホークスを逆指名して1位で入団、さらに同期のチームメイト澤崎俊和(広島)、清水将海(ロッテ)と3人がドラフト1位という高い評価を受けました。

ダイハード打線の一角として、ダイエー日本一に大きく貢献

即戦力内野手として入団した井口資仁は、怪我で開幕には出遅れますがド派手なプロデビューを飾ります。1ヶ月遅れの5月、2番遊撃手で先発すると初打席で初安打を放ちました。さらに3打席目では初本塁打が満塁の場面で飛び出すという新人としては初の快挙を成し遂げました。そして2年目には、早くもレギュラーとしてフル出場を達成します。打順は2番と4番以外すべてを経験し、打率は.221と低迷しましたが21本塁打、66打点と長打力を見せ付けました。1999年は、開幕3番に抜擢されますが、打撃の調子を落とし打順も下位に降格となります。それでも終盤に勝負強さを発揮して、ダイエーとして初のリーグ優勝、日本一に貢献しました。

2000年は怪我でチームの連覇には貢献できず、悔しいシーズンとなりました。しかし翌年から、一気にダイエー打線の中核として活躍します。3番・二塁手として定着し、140試合フル出場を達成。そしてともにキャリアハイとなる30本塁打、44盗塁で自身初の盗塁王、ベストナイン、ゴールデングラブ賞を獲得しました。2002年は少し数字を落としましたが、2003年、ダイエー史上最強と呼ばれたダイハード打線の3番打者として驚きの成績をマークします。打率はリーグ4位の.340、そして27本塁打、109打点と100打点カルテットの一人として活躍したばかりか、42盗塁で2度目の盗塁王にも輝きました。ベストナインとゴールデングラブ賞のダブル受賞も決めて、ダイエー2度目の日本一に貢献しました。

1年見送りとなるも、念願のメジャーリーグ挑戦を表明

井口資仁は、学生時代にオリンピックでキューバと戦った際、メジャーリーグでのプレーを熱望するようになります。そして2003年日本一を決めたオフ、ポスティングシステムを行使しての挑戦を許諾されていました。しかし、主砲・小久保裕紀の電撃無償トレードのため、突如見送りとなります。それでも同年はプロとして気持ちを切り替え、リーグ4位の打率.333に、24本塁打、89打点、18盗塁と2年連続のシーズン1位に貢献しました。そして2004年オフ自由契約を勝ち取り、満を持してメジャー挑戦を表明しました。

スモールベースボール影の功労者として、ワールドチャンピオン

2005年、井口資仁はシカゴ・ホワイトソックスの選手として開幕戦から出場します。チームの指揮を執るオジー・ギーエン監督は、同年スモールベースボールという日本野球に近い戦略をとり、2番二塁手に固定した井口につなぎの役目を託しました。元来メジャーリーガーは、アウトになっても走者を進めることや犠牲バントなどほぼ経験がありません。しかし井口は日本で経験したことを存分に発揮しました。

同年は135試合に出場して、打率.278、15本塁打、71打点の成績を残しました。チームも開幕から首位を独走して4度目の地区優勝を飾ります。さらにポストシーズンでも、井口は逆転本塁打を放つなど46年ぶりのワールドシリーズへ進出しました。そして、すべて接戦となりましたが、お得意のスモールベースボールでオール2点差以内の4連勝を飾り、実に88年ぶりのワールドシリーズ制覇を成し遂げました。ギーエン監督は、シーズン終了後、MVPは井口と名指しで評価し、井口は日本人で実際に出場して初となるワールドチャンピオンリングを手にしました。

移籍を繰り返し、2個目のチャンピオンリングを手に入れる

メジャー2年目も、かなり制約された状況が続きましたが、138試合出場で打率.281、18本塁打、67打点の成績を残しました。3年目途中には、骨折したチェイス・アトリーの緊急代役として白羽の矢が立ち、求められる立場でフィラデルフィア・フィリーズへトレード移籍となります。打席数は減りましたが、トータルで3年連続135試合以上に出場し、苦労している日本人メジャー選手の中では、安定した成績を残しました。

しかしフィリーズでは二塁手としての出場機会が少ないと判断し、メジャー4年目はサンディエゴ・パドレスと1年契約をして3度目の移籍を経験します。序盤こそ絶不調に陥りましたが、何とか復調していた矢先、4年目にして初めて故障者リストに入り一気に雲行きが怪しくなります。結局、シーズン途中の9月に解雇されました。それでも、前年在籍したフィリーズに復帰して田口壮とチームメイトとなると、チームはワールドシリーズを制し2個目のチャンピオンリングを手にしました。しかし、前回と違って出場ゼロに終わったこともあって不本意な形での受賞でした。

ロッテで日本球界復帰すると精神的支柱として活躍中

2008年オフ、フィリーズや他球団からも複数年契約オファーがありましたが、2009年からの井口資仁は日本球界復帰を選択し千葉ロッテマリーンズと契約を交わしました。34歳で迎えたシーズンは、3番に定着して主力として活躍しました。2年目には早くもチームに慣れて打率.294、17本塁打、そしてリーグ2位の103打点と打線を牽引します。ペナントレースは3位に終わりましたが、プレーオフでの奇跡的な勝利で、日本シリーズをも制す「史上最大の下克上」に大きく貢献しました。

その後も4年間、130試合近く出場し続け、2013年には日米通算2,000本安打も達成しました。大ベテランの域に達した2014年以降は年々出場試合数を減らし、規定打席到達は2013年を最後に実現できていません。パ・リーグ最年長となった2016年も若いチームにおける精神的支柱として、伊東勤監督の絶大の信頼を得ています。

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