栗原健太について

名前栗原健太(クリハラケンタ)
生年月日1982年1月8日
日本
出身山形県天童市
プロフィール小学2年から野球を始め、天童二中ではエースで4番。日本大学山形高校に進み、1年からレギュラー、2年夏に甲子園出場。3年では高校野球東北選抜チームの一員としてハワイ遠征に参加。高校通算39本塁打と、東北屈指のスラッガーとして注目される。

2000年ドラフト3位で広島に入団。当初は厚い一軍の壁を破れずに二軍生活を余儀なくされる。しかし7年目の2006年、一塁手レギュラーを獲得すると同年から4年連続20本塁打と広島の中軸に定着。2008年からは、移籍した新井貴浩に代わって4番打者を務める。第2回WBCに追加召集されて優勝を味わうなど、日本を代表するバッターとなりましたが、腰、右肘の故障に悩まされる。

2011年には、初のベストナインに選出されるも、同年が規定打席に到達した最後の年となる。手術を繰り返して再起を図るも、2014年から2年連続一軍試合出場ゼロに終わり、2015年オフに楽天の入団テストを受けて移籍。しかし、楽天でも一軍公式戦出場はかなわず、同年限りで現役引退。2017年からは楽天二軍打撃コーチに就任。

通算成績は1,026試合、3,695打数1,082安打、153本塁打、586打点、17盗塁、打率.293。ベストナイン1回、ゴールデングラブ賞3回。日大山形高卒、右投右打、183cm、97kg。

脅威の身体能力を持ち、日大山形高校時代はプロスカウトが注目

栗原健太は、山形県天童市の焼肉店の長男として生まれます。小学校に入る前からボールで遊ぶようになり、野球以外にもサッカー、水泳など様々なスポーツに取り組みました。小学校、中学校とエースで4番を務めていましたが、中学時代は、陸上3種競技の天童市大会で優勝を収めるほど運動神経は抜群でした。

日大山形高校にスカウトされて進学後は、実家が焼肉店ならではの毎日の愛情弁当で体もできあがっていきます。そして当初は大型投手として育てるつもりが、あまりの打撃センスに内野手に転向されました。その実力は群を抜いており、1年夏には5番打者、秋には早くも4番を任されます。2年の春季大会では打率7割という驚きの成績もあげて、夏に自身初めて甲子園出場を決めました。残念ながら初戦敗退となり、それが唯一の甲子園となりましたが、高校通算39本塁打のスラッガーにはプロ球団スカウトが駆けつけるようになりました。

広島東洋カープに入団すると、猛練習で少しずつチャンスを掴む

1999年ドラフト3位で広島東洋カープに指名され、栗原健太はプロ野球選手となりました。高卒新人のため、まずは二軍からスタートとなりましたが、自身とのレベル差を痛感します。それでも一軍で活躍するために、12球団一と言われる広島の猛練習に明け暮れる日が続きます。こうして入団して2年間は、一軍試合に出場することなく二軍で汗にまみれました。

そして3年目の2002年、二軍開幕戦の4番には栗原の名前がありました。徐々に成績を残すと、ジュニアオールスターでも4番に抜擢され、シーズン終盤には初の一軍昇格を果たします。2003年には二軍で、本塁打と打点の2冠王にも輝き、少しずつ一軍での出場機会を増やしていきます。2004年には自身初の開幕スタメンを勝ち取り、11本塁打と二桁本塁打も達成します。さらに2005年には、77試合と出場試合数を減らしたにもかかわらず、打率.323、15本塁打と大気の片鱗を見せ始めていました。

一気に広島レギュラーを奪い、2008年からは4番に定着

2006年、栗原健太の背番号は、大きな期待をかけられて50から5に変更されました。同年、開幕を5番・一塁手で迎えると完全にレギュラーに定着します。7月には月間MVPを奪う活躍を見せ、時には新井貴浩に代わって4番を任されるようにもなりました。しかし、打率も3割目前、本塁打も20本の大台に乗せた8月に腰の故障で欠場すると、椎間板ヘルニアの診断を受けて、残りのシーズンを棒に振りました。

栗原は、上り調子のときに途中離脱をしたため、フル出場を最大の目標に掲げました。当時、すでに右肘痛が始まっていましたが、痛みに耐えて試合に出続けます。そして2007年は初めて規定打席に到達して、リーグ5位の打率.310、ともにチーム2位となる25本塁打、92打点と好成績をマークします。ほとんどを3番打者として出場し、目標だったフル出場を達成しました。さらに翌年は、新井がFA移籍したため、開幕から全試合4番スタメンで出場します。成績も安定しており、打撃3部門すべてチームトップの、打率.322(リーグ3位)、23本塁打(リーグ9位)、103打点(リーグ4位)と4番打者として文句なしの成績を収めました。またゴールデングラブ賞も初受賞と、リーグを代表する打者へ成長し、4年契約も締結します。そしてさらなる飛躍を信じて、右肘のクリーニング手術も受けました。

4年連続20本塁打を達成するも、長い怪我との戦いが続く

2009年、栗原健太は第2回WBC日本代表の最終候補に選出されました。一度は最終選考にもれるも、村田修一の負傷で代替選手として準決勝からチームに緊急招集されます。慌しい移動もあって、3打席で無安打に終わりましたが、優勝メンバーの一員となりました。

帰国後、もちろん4番としてシーズンに挑みましたが、持病の腰痛に悩まされました。本塁打こそ前年同様の23本を放ち、4年連続20本塁打をクリアしましたが、打率に至っては前年から8分近く落とします。2010年は、6月に骨折して2ヶ月の戦線離脱を余儀なくされました。2011年、統一球の影響で当初は苦労するも、夏場に調子を取り戻すと、広島選手として初の2ヶ月連続月間MVPを受賞します。リーグ2位の87打点など、打撃3部門すべて10傑に名を連ね、ゴールデングラブ賞とベストナインのダブル受賞と完全復活を印象付けました。

この時すでにFA権を取得していましたが、愛着ある広島での優勝を目指し行使をせず残留を選択していました。しかし、2012年以降、栗原が再び輝くことはありませんでした。2012年、右肘痛が再発して21試合の出場に終わり、同年オフ2度目の右肘手術を受けます。2013年は、持病の腰痛に加えて、鼻骨骨折や大腿部の故障などで24試合出場に留まります。さらに2014年は、入団直後以来の一軍出場なしに終わり、ついに3度目の右肘手術という選択をしました。

楽天で再起をかけるも、一軍復帰ならず現役引退を決断

広島不動の4番から、将来の日本の4番と期待されていた栗原健太ですが、2015年も一軍試合出場なしに終わります。3度メスを入れた肘、若手への世代交代を進めるチームにおいては居場所がなく、オフには戦力外に等しい大減俸を提示されました。これに対して、33歳だった栗原は、自由契約を申し出て他球団での現役続行を目指しました。

楽天の入団テストを受けた栗原は、星野仙一球団副会長の目に留まり、2016年もユニフォームを着ることが決定します。そして1年勝負と心に決めて再起を目指しましたが、一度も一軍公式戦出場をすることができませんでした。そして、同年限りでの引退を決意して現役生活に別れを告げました。楽天在籍はわずか1年でしたが、栗原の野球に対する姿勢は若手の模範となり、そのまま球団に残っての二軍打撃コーチへの就任が決まりました。

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