松中信彦について

名前松中信彦(マツナカノブヒコ)
生年月日1973年12月26日
日本
出身熊本県八代市
プロフィール1992年新日鉄君津に入社。1995年社会人ベストナイン。1996年アトランタ五輪では4番を打ち、銀メダルを獲得。

同年ドラフト2位でダイエーに入団。2000年プロ選手から初めてシドニー五輪代表に選ばれ、4位。同年パ・リーグMVPを獲得し、ベストナインにも選ばれる。同年12月、1億円増となる年俸1億5千万円で契約更改。同年アナウンサーの林恵子と結婚。2004年、史上7人目の3冠王を獲得するなど打撃部門5冠を達成。2005年も本塁打と打点の2冠を達成。2006年、第1回WBCには日本代表4番として活躍し、初代王者に貢献。同年シーズンでも2度目の首位打者を獲得。2010年以降は故障に悩まされ続け、出場機会を減らす。晩年は二軍暮らしも長くなり、2015年限りでホークスを退団。その後も現役続行を目指し他球団からの獲得オファーを待つも、2016年3月現役引退。

通算成績は1,780試合、5,964打数1,767安打、352本塁打、1,168打点、28盗塁、打率.296。首位打者2回、本塁打王2回、打点王3回、最多安打1回、最高出塁率3回、MVP2回、ベストナイン5回、ゴールデングラブ賞1回。八代一高卒、新日鉄君津出身、左投左打、183cm、96kg。

アトランタ五輪では日本の4番として5本塁打を放ち銀メダル獲得

松中信彦は熊本県に生まれ、小学4年から代陽小学校野球クラブで本格的に野球を始めます。投手や一塁手を務め、中学時代まで軟式野球でプレーをしていました。しかし八代第一高校(現・秀岳館)に進学すると、硬式球で利き腕の左肘を故障します。医師にはそのまま続けると、野球ができなくなるといわれるほど重傷でしたが、右投げに変えてまで野球を続けました。

高校時代は、甲子園には縁がなく、卒業後新日鐵君津に入社します。すでにプロ入りできるほどのバッティングセンスを持っていましたが、慣れない右投げでの守備はかなり不安定でした。しかし、左肘を手術して不安をなくすと、1996年のアトランタオリンピックの全日本代表に選出されました。後にプロ入りする井口資仁、今岡誠、福留孝介が7番からの下位打線として並ぶ打線において、松中は堂々の4番に抜擢されます。そして5本塁打、16打点とチームトップの数字をたたきだし、決勝のキューバ戦では、敗れはしましたが満塁弾も放ちました。

ダイエー主軸に定着して、日本一、リーグ連覇に大きく貢献

1996年ドラフトでは一躍注目の的となり、松中信彦は当時認められていた逆指名制度で福岡ダイエーホークスに入団します。即戦力として期待されましたが、ルーキーイヤーは20試合出場に終わり、同期入団の井口資仁(ドラフト1位)に遅れを取ります。2年目も、一軍定着できませんでしたが、ウェスタン・リーグでは本塁打王と才能を開花させていました。

3年目の1999年、ついに一塁手レギュラーに定着してホークスの主軸へと成長していきます。同年は7番と下位ながらチーム2位の23本塁打に71打点と活躍し、ダイエーとして初のリーグ優勝、ならびに日本一に大きく貢献しました。翌2000年は、5番打者に昇格し打率.312、33本塁打、106打点と打撃3部門すべてでリーグ10傑に入るなど、チームの連覇に貢献し初のシーズンMVPにも輝きました。2001年、リーグ3連覇こそ逃しましたが、打撃3部門すべてでさらに前年を上回り、強力打線をリードします。同年、松坂大輔からは剛速球にバットを折られながらもホームランを放つという離れ業も披露していました。

史上7人目、平成の時代としては唯一の3冠王を達成

2002年は打撃不振に陥りましたが、2003年は小久保裕紀の負傷離脱により開幕から4番に座ります。優勝した西武に大きく差をつけられ2位となりましたが、打線はさらに厚みを増して100打点達成者4人のカルテットを形成しました。中でも、松中信彦はトップの123打点で初タイトルとなる打点王を手にしました。この強力打線に1年のリハビリを終えて小久保が復帰すると思われましたが、同年オフに無償トレードで巨人への移籍が発表されました。

こうして2004年も4番に座った松中は、開幕から高いレベルで好調を維持します。本塁打こそ44本でセギノール(日本ハム)と同数でしたが、打率.358、120打点は2位以下を大きく引き離し、落合博満以来となる史上7人目の3冠王を獲得しました。最多安打、最高出塁率とあわせて5冠であり、MVP、ベストナイン、ゴールデングラブ賞などあらゆる賞を総なめにしました。2016年末現在で松中以降に3冠王は現れておらず、平成の時代として唯一の達成者という状態が続いています。

2005年も、2年連続本塁打王に、3年連続打点王と日本を代表する打者となります。松中がレギュラーに定着して以降のホークスは、同年までの7年間でいずれも1位もしくは2位となり、チームを常勝軍団に押し上げました。そして同年オフには7年というプロ野球史上最長で契約を更新しました。

第1回WBCでは、日本の4番として初代王者に大貢献

2006年シーズン前には、第1回WBC日本代表に選出されました。松中信彦はアマ時代の五輪同様に、全日本の4番に座り好成績でチームを牽引します。決勝トーナメントに駒を進めると、準決勝では0-0の緊迫した場面で、2ベースとヘッドスライディングでチームを鼓舞しました。結局、決勝も大差で勝利し、見事日本は初代王者となりましたが、松中は全8試合に出場して、共にチームトップの打率.433、出塁率.528で優勝に大きく貢献しました。

ポストシーズンの呪縛に苦しみ、戦犯扱いもされた数年間

その後もシーズンでは安定した成績を残した松中信彦でしたが、特にポストシーズンにおける成績が悪く、ホークスは日本シリーズへの挑戦権を奪えないことが多くありました。

プレーオフ制度が導入されたのは2004年、第1戦でホームランを放つも、その後わずか1安打に終わり、シーズン1位通過にもかかわらず西武に敗れました。翌年もシーズン1位で臨みましたが、1安打に終わり、チームも敗退。逆にシーズン3位で臨んだ2006年は、18打数7安打7打点と活躍しましたが、チームは敗れました。2010年も1位でプレーオフを戦うも、松中は打率1割台と完全に押さえ込まれ、シーズン3位のロッテに下克上を決められました。

まさにポストシーズンの呪縛に苦しみ続けましたが、2011年ついにその呪いを解き放ちます。勝負どころで代打で登場すると、不振を振り払う満塁ホームランでチームを日本シリーズに導き、日本一を取り戻しました。

ホークス退団後も現役にこだわるが、獲得オファーはなく現役引退

松中信彦は絶頂期にもかかわらず膝に不安を抱えていたため、2005年からは主に指名打者としてプレーしていました。しかし、その後も怪我が付きまとう野球人生となります。右臀部の腫瘍、半月版損傷、肘・左手首などの故障が重なり、2010年以降出場機会が減っていきます。同年オフには、2億円減という提示も受け入れ、復活に向けてバットを振りましたが、かつての3冠王の面影はありませんでした。

2013年以降は、二軍生活のほうが長くなり、ついに2015年限りでホークスのユニフォームを脱ぐことを決意しました。その後も現役続行を視野に入れて他球団からのオファーを待ち続け、一人でトレーニングに明け暮れます。しかし、NPBからのオファーはなく、2016年3月ついに現役引退を表明しました。


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