赤星憲広について

名前赤星憲広(アカホシノリヒロ)
生年月日1976年4月10日
日本
出身愛知県
プロフィール大府高では1993,1994年センバツに出場。亜細亜大に進み、3度の優勝を経験、1998年明治神宮野球大会優勝に貢献。同年大学選手権準優勝。

卒業後、JR東日本に入社。1999年シドニー五輪アジア予選代表となり、2000年同五輪4位。

2001年ドラフト4位で阪神に入団。同年新人王の他、新人としては55年ぶりとなる盗塁王を獲得。2003年は、61盗塁で3年連続盗塁王を決めて、阪神18年ぶりの優勝に貢献。さらに同年から福本豊以来の3年連続60盗塁達成し、リーグ新記録の5年連続盗塁王を獲得しました。打率3割も3年連続で達成し、まさに阪神不動となりましたが、2007年から怪我に苦しめられます。外野守備におけるダイビングキャッチから、頸椎椎間板ヘルニアを悪くし、選手生命すら脅かされるようになりました。2008年には怪我と戦いながら、5年ぶりのフル出場にキャリアハイの打率.317を記録。しかし2009年、再び守備時に中心性脊髄損傷を負い、同年限りでの現役引退を決意。通算381盗塁は、歴代9位の記録。

通算成績は1,127試合、4,330打数1,276安打、3本塁打、215打点、381盗塁、打率.295。盗塁王5回、新人王、ベストナイン2回、ゴールデングラブ賞6回。大府高校卒、亜細亜大学卒、右投左打、170cm、66kg。

小さい体が原因で、高卒、大卒時と連続の指名漏れを経験

愛知県に生まれた赤星憲広は、幼少のころから足の速さでは誰にも負けたことがないほど俊足でした。父親が少年野球のコーチを務めていましたが、小学生時代はサッカー部に入ります。運動神経抜群の赤星は、そこでも突出しており愛知県代表に選出されるほどでした。小学6年からようやく野球を始めると、すぐにのめり込むようになります。そして地元の大府高校に進学すると、1年秋からレギュラーを奪いました。当時左打者へも転向も成功させ存分に俊足を披露すると、2年連続でセンバツ甲子園出場も成し遂げます。しかし本選では自身のエラーでともに初戦敗退という苦い経験をしました。

高卒時点でドラフト候補として名前が挙がってはいましたが、体の小ささも指摘されました。赤星もプロ入りする自信はとてもなく、教員免許を取得できる亜細亜大学へ進学しました。そして社会科の教員免許を取得しつつ、4年間野球に打ち込みプロへの可能性を探ります。しかし、亜細亜大学野球部は、軍隊とも言われるほど練習がきつく上下関係も厳しいものがありました。それでも死に物狂いで猛練習に明け暮れると1年秋から三塁手レギュラーを手にします。2年からは外野手に転向して、リーグ歴代3位の45盗塁を積み上げます。

そして卒業間際の4年秋には、明治神宮野球大会で優勝も経験しました。大学4年間で自信をつけた赤星でしたが、またしても体が小さいことを理由にプロ指名はかかりませんでした。この時点で、プロ入りは半ば諦めてJR東日本に進みました。しかし、入社後すぐにシドニー五輪強化指定選手に選出されると、ロッテ、阪神のプロキャンプに参加する機会を得ます。そしてその時、赤星に高い評価を与えたのが当時阪神監督の野村克也でした。

野村克也の目に留まり、阪神入団すると新人王と盗塁王のダブル受賞

シドニー五輪では、日本はメダル無しに終わりましたが、赤星憲広は持ち味を生かし2盗塁を記録しました。そして同年秋のドラフト会議において、阪神タイガースから4位指名を受けます。もちろん野村監督の意向が反映された形でした。当時の阪神は、暗黒時代であり新たな戦力を起用する土壌としては最適でもありました。赤星はいきなり一軍キャンプに抜擢され、さらにF1セブンと命名された俊足選手7人中の1号車として大きく期待されます。そして監督から徹底的にゴロを転がすよう指示されると、そのまま開幕一軍として名を連ねていました。

開幕早々、初安打をセーフティバントで決め、その後の試合では初盗塁を決めると5月にはレギュラーを獲得していました。2番打者として定着すると、打率.292(リーグ15位)を記録し、39盗塁で盗塁王に輝きます。外野手としてゴールデングラブ賞も受賞し、8割以上の得票を集め新人王にも輝きました。盗塁王と新人王のダブル受賞は史上初の快挙でした。

3年連続の盗塁王で、阪神18年ぶりのリーグ優勝に貢献

赤星憲広はルーキーイヤーから活躍しましたが、チームは4年連続の最下位に終わり、監督には星野仙一が着任します。2002年シーズンは1番打者として開幕を迎えましたが、17試合目に骨折を負って前半戦を棒に振りました。7月末に復帰して出場は78試合に留まりましたが、26盗塁で2年連続盗塁王を獲得しました。

そして2003年は、赤星にとって飛躍の年になります。同年は2番に完全固定され、3番にはFAで移籍してきた金本知憲が座りました。そして経験ある金本が後ろを打つことで、盗塁の数は飛躍的に伸び、最終的には61個で球団新記録を達成しました。さらに打撃向上にも取り組んだおかげで、自身初の打率3割をクリアしリーグ8位の.312をマークします。阪神は開幕ダッシュに成功し、18年ぶりのリーグ優勝を実現しましたが、それを決定付けた日も赤星のサヨナラ安打でマジックを減らしました。3年連続の盗塁王も手にし、同年から盗塁数と同じ数の車椅子の寄贈をスタートさせます。

3年連続60盗塁、5年連続盗塁王で球界を代表するスピードスターとなる

阪神タイガースに不可欠となった赤星憲広は、球界を代表するスピードスターへと成長していきます。2004年序盤こそ苦しみましたが、シーズンを終わってみれば2年連続の打率3割に、キャリアハイの64盗塁で4年連続の盗塁王を受賞します。2005年も、好調を持続させ、190安打で打率3割、60盗塁でリーグ初となる5年連続盗塁王を手にしました。日本プロ野球歴代1位の盗塁記録を持つ福本豊以来の、3年連続60盗塁も達成し、まさに球界を代表するスピードスターへ名乗りを上げました。同年は、2年ぶりのリーグ優勝を収めましたが、2003年に続いて日本シリーズで敗れていました。

禁止されたダイビングキャッチを敢行し、選手生命が終わる

2006年からは選手会長に就任して連覇を目指しましたが、首位中日に追いつくことができず2位に終わります。同年の赤星憲広は打率を大きく落とし、自慢の盗塁も35個まで積み上げましたが、41盗塁の青木宣親に盗塁王を奪われました。それでも守備力は健在で、4年連続のゴールデングラブ賞を受賞していました。

しかし少しずつ赤星の歯車が狂っていきます。2007年開幕直後、左腕の痺れがひどく病院に駆けつけたところ、頸椎椎間板ヘルニアと診断されます。さらに5月にダイビングキャッチを試みた際、病状が悪化し脊髄損傷も負ってしまいます。医師には、頚椎に負担がかかるダイビングキャッチやヘッドスライディングは禁止を言い渡されるほどの重傷でした。頸に爆弾を抱えたままプレーを続け、通算1,000本安打に通算300盗塁を記録しましたが、絶頂期の赤星の数字と比較すれば乏しい内容に終わりました。さらに2008年は、休養を与えられながらの出場となり、144試合フル出場、そしてキャリアハイの打率.317をマークします。41盗塁とさすがの俊足を披露しましたが、1差で盗塁王を逃しました。

2009年は再びヘルニアに苦しみ、痛み止めの注射は欠かせないようになっていました。そして、同年9月、外野守備時において医者から固く止められていたダイビングキャッチを本能的に敢行してしまいます。脊髄損傷はさらに進み、グラウンドから動けなくなりました。

当初は手足の感覚を失い、後遺症が残る可能性も指摘され、引退すら勧められましたが赤星は現役続行を望みました。しかし、セカンドオピニオンを得ていけば、病状の深刻度を改めて知らされ、最終的には死の危険性すら言及されます。さすがに命には代えられず、球界最高峰のスピードスターは、9年間という短い現役生活に別れを告げる決断をしました。それでも、身長170センチが残した通算381盗塁は歴代9位の記録であり、阪神球団記録でもあります(ともに2016年末時点)。


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