中島裕之について

名前中島裕之(ナカジマヒロユキ)
生年月日1982年7月31日
日本
出身兵庫県伊丹市
プロフィール伊丹北高では、部員不足のため1年から3ケ所のポジションを守る。2年秋からエースをつとめ、2000年兵庫県大会では4回戦進出の原動力となる。高校通算本塁打42本。

2001年ドラフト5位で西武に入団。プロ入りしてから遊撃手をはじめ、4年目から頭角を現す。2004年フルイニング出場を果たし、27本塁打、92打点など松井稼頭央の穴を埋める活躍を見せる。以後主に3番打者を務め、打率2位も2回、ベストナイン、ゴールデングラブ賞もともに4度受賞と球界を代表する内野手となる。北京五輪、第2回WBCでもレギュラーとして活躍しWBC連覇にも貢献。

2011年オフにポスティングシステムでの移籍に失敗するも翌年オフ海外FA権を行使して、オークランド・アスレチックスと2年契約を締結。しかし2年間で1試合もメジャー昇格できずメジャー生活を断念。2015年からは、オリックスと3年契約を交わす。しかし2年間期待を裏切り、2017年契約最終年を迎えている。

NPB通算成績は1,438試合、5,293打数1,571安打、180本塁打、831打点、143盗塁、打率.297(2016年まで)。最多安打1回、最高出塁率2回、ベストナイン4回、ゴールデングラブ賞3回。

MLB時代の通算成績は記録無し。伊丹北高卒、右投右打、180cm、91kg。

無名校で野球の才能を伸ばし、西武5位指名でプロの世界へ

中島裕之は、兵庫県に生まれると小学生から野球を始めます。当時は投手を務めており、幼馴染の山崎勝己とバッテリーを組んで全国大会にも出場していました。中学時代に才能をさらに伸ばすと、数々の高校からのスカウトを受けるようになります。そこで中島は山崎とともに、地元の名門・報徳学園を受験しました。しかし山崎は受かったものの自身は不合格となり、全くの無名校・伊丹北高校へ進学しました。

1年生からレギュラーとなり、投手と務めながらも時には外野手としても出場します。激戦区兵庫のため、甲子園にははるか遠くおよびませんでしたが、のびのびした環境は野球の才能をさらに開花させることにつながりました。最高位で4回戦敗退でしたが、高校通算43本塁打を記録しプロスカウトの目に留まるようになっていました。そして2000年ドラフト会議では西武ライオンズから5位指名を受けて入団します。報徳へ進んだ山崎も同じタイミングで福岡ダイエーホークスの4位で指名されていました。

4年目から、松井稼頭央の後釜として遊撃手レギュラーを奪う

1年目は体作り、そして初体験である遊撃手の練習に明け暮れます。すると2年目には二軍のレギュラーを奪い、イースタン・リーグ全試合に出場して経験をつみました。当然、慣れない遊撃手のポジションでは失策を繰り返しましたが、打率.299、11本塁打と中距離打者として頭角を現します。2003年も二軍中心となりましたが、一軍試合も44試合を経験し、初安打、初本塁打などを記録し成長を示しました。

2003年オフ、球団は中島裕之に背番号3を与え、メジャー挑戦した松井稼頭央の後釜にと期待します。そして2004年、7番遊撃手として初めて開幕スタメンに名を連ねました。失策こそリーグワーストでしたが、リーグで唯一のフルイニング出場を果たし、打率.287、27本塁打、90打点、18盗塁の好成績を残します。見事に松井の穴を埋めて、リーグ優勝に貢献し、日本シリーズでも2本塁打を放ちチームの日本一にも貢献しました。

西武で不可欠な存在となり、国際大会でも結果を残す

2005、2006年と怪我で途中離脱しましたが、中島裕之は西武の3番を務めるようになります。そして2007年には、初めて規定打席をクリアしての打率3割を達成します。すでにこのころ、リーグを代表する大型内野手に成長しており、2008年には北京五輪日本代表にも選出されます。レギュラーとして最多タイの9試合に出場、5打点と日本の中軸として活躍しました。同年のシーズンでも、打率リーグ2位の.331に初タイトルとなる最高出塁率も獲得します。ベストナイン、ゴールデングラブ賞もダブル受賞し、名実ともに日本を代表する遊撃手となりました。

2009年は、シーズン前に日本代表として第2回WBCに出場します。遊撃手かつ攻撃的2番打者に固定されて、チームトップの打率.364、出塁率.516、7打点を記録し、日本の連覇に貢献しました。同シーズンも、2004年以来のフル出場を果たし、173安打で最多安打、100得点で最多得点をはじめ、2年連続で最高出塁率、ベストナイン、ゴールデングラブ賞を受賞しました。同年から3年連続で90打点以上をマークし、2011年は遊撃手として初の100打点もクリアしました。まさに西武の中軸として欠かせない存在となり、課題だった守備でも失策数を減らしていました。

一度は交渉決裂するも、海外FA権を行使してメジャー挑戦

中島裕之は、2011年オフ、ポスティングシステムを利用してのメジャー移籍を容認されました。そして名門ニューヨーク・ヤンキースが落札し、独占交渉権を獲得します。期待に胸を膨らませましたが、交渉が決裂し西武残留となりました。2012年も西武の中軸として活躍し、わずか1厘差で首位打者を逃すもリーグ2位の155安打、打率.311と安定した成績を残しました。7年連続8度目のオールスターにも出場し、2年連続ベストナイン、ゴールデングラブ賞をダブル受賞します。そして今度は、自ら移籍先を交渉できる海外FA行使して、1年越しのメジャー挑戦を実現させました。

アスレチックス時代の2年間、まさかのメジャー昇格ゼロに終わる

2012年12月、オークランド・アスレチックスと最大3年契約を交わし、夢の入り口まで到達します。オリンピックやWBCなど数々の国際大会で成績を残していたこともあって、日本のファンからも中島には大きな期待がかかりました。しかしキャンプで深刻な打撃不振に陥ると、オープン戦で怪我を負っていきなり故障者リスト入りします。3Aで結果を残してメジャー昇格を試みますが、結局叶わぬまま1年が過ぎてしまいました。

2年目もメジャーの舞台を目指してマイナーで開幕を迎えます。しかし日本時代の安定した打撃は鳴りを潜め、不安定な守備のためポジションを転々とします。結局同年も1試合すらメジャー試合に出場することなく、契約を破棄されました。中島のメジャー挑戦は完全に失敗に終わり、日本球界復帰を決断しました。

オリックスで日本球界復帰するも、2年間は大きく期待を裏切る

メジャーで全く成績を残せませんでしたが、32歳と若い中島裕之の獲得には複数球団が手を上げました。そして地元兵庫県に本拠地を持つオリックス・バファローズと3年契約を結びました。偶然にもチームには、幼馴染だった山崎勝己が前年にFA移籍しており、20年ぶりにチームメイトになりました。

前年、最終戦でリーグ優勝を逃したオリックスは開幕4番に中島を据えました。途中2度故障離脱するも、117試合に出場して規定打席に到達します。しかし成績は、打率.240、10本塁打、46打点とかつて西武の主砲だった面影はありませんでした。

復帰2年目も故障や打撃不振などで、96試合出場に留まり大きく期待を裏切ります。通算1,500本安打を達成し、打率こそ.290と上昇させたものの8本塁打、47打点と長打力の復活はなりませんでした。契約最終年となる2017年、35歳のシーズンで完全復活を目指しています。

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