本田泰人について

名前本田泰人(ホンダヤスト)
生年月日1969年6月25日
日本
出身福岡県
プロフィール福岡県に生まれ、小学6年生から本格的にサッカーを始める。父と二人三脚で技術を磨き帝京高を経て、1988年本田技研に入社。同社のJリーグ参画断念に伴い、1992年鹿島アントラーズに入団。Jリーグ初年度1stステージ優勝を飾り、自身もベストイレブンに選出される。

1995年主将、同年7月リーグ初の100試合出場を達成。同年日本代表入り。1997年W杯フランス大会予選代表。ハードワークに定評のあるボランチとして活躍し鹿島黄金時代を牽引。2006年に現役引退を表明し、2007年Jリーグ功労賞を受賞。

現役引退後は、チームのアドバイザーを2年務めるなど、指導者としての第2の人生をスタート。Jリーグ選手OB会副会長。Honda Yasuto Football Academyを立ち上げる。帝京高卒、166cm、64kg。

突如野球からサッカーに転向し、父のスパルタ教育で成長

本田泰人は、福岡県に生まれると、兄の影響を受けて野球にのめりこむようになります。自然とプロ野球選手に憧れを持つようになり、高い運動神経からサッカーに誘われることもありましたが、当時のサッカー界はプロリーグがなく遊び感覚でやっていたほどでした。しかし、小学6年生から野球をやめて本格的にサッカーを始めることになります。キッカケは、父の言葉であり、当時から父のスパルタ教育もスタートしました。響南中学卒業までの4年間、早朝ランニングから学校の練習後の自主練にいたるまで二人三脚で猛練習を続けました。

中学の全国大会時、帝京高校の監督が観戦にくると、父自ら息子の売込みを敢行し、同試合で3ゴールを決めた本田は帝京高校への進学が決まります。強豪校では、同期の磯貝洋光らに影響を受けながらサッカーを続けました。卒業後は本田技研に進み、後のJリーグ入りを夢見ます。しかし、本田宗一郎氏が死去すると一気に会社は方針転換し、本田としてのプロ化の可能性が消滅してしまいました。

鹿島アントラーズでJリーグ開幕を迎え、ベストイレブンに選出

本田技研4年目を迎えた1992年、本田泰人に大きな転機が訪れます。当事、住友金属サッカー部(後の鹿島アントラーズ)には元ブラジル代表の大スター・ジーコが入団しており、そのチームとの対戦することになります。ディフェンダーを務めていた本田は、ジーコを徹底マークして仕事をさせず、強烈な印象を残しました。そんな時期に、本田技研の総監督らとともに住友金属への移籍話が持ち上がり、ジーコの存在が決め手となって移籍を決断しました。

1993年、チームは鹿島アントラーズとしてJリーグ発足を迎えました。開幕戦をジーコのハットトリックで最高のスタートを切ると、本田もMFとして出場を重ねます。圧倒的なスタミナを誇り、相手エースストライカーを徹底マークして仕事をさせません。チームは、1STステージを見事制覇し、総合優勝こそ逃しましたが、鹿島町は一躍サッカーの町として認知されるようになりました。本田は、大野俊三、サントスらとともに初代ベストイレブンにも選出されました。

主将として、スッポンディフェンスを武器に鹿島黄金時代を牽引

1994年シーズン1stステージでジーコが引退すると、本田泰人は2代目キャプテンに就任します。まさにジーコの後継者としての指名であり、25歳での就任は異例でもありました。本田は不動のボランチとして出場し続け、背中でチームを牽引します。かつてジーコも嫌がったストライカーに対する執拗なマークは健在で、本田のディフェンス力は鹿島の大きな武器となりました。

徐々にチーム力を上げた鹿島は、1シーズン制となった1996年に、ついにリーグ戦初優勝を飾ります。さらに1997年はゼロックス・スーパーカップ初優勝でスタートすると、ナビスコカップと天皇杯をいずれも初制覇しました。この当時から日本代表にも選出されるようになり、日本初のワールドカップ出場にも貢献します。残念ながらW杯本選でピッチに立つことはできませんでしたが、鹿島でのキャプテンシーはさらに増し、チームを黄金時代へと導いていきます。

2000年には、Jリーグ、ナビスコカップ、天皇杯を制覇し、ついにJリーグ発足以来初の三冠を達成し、2001年にはリーグ連覇も達成しました。本田が不在時には、簡単にディフェンスラインを突破されるほど、チームには不可欠な存在として際立っていました。

他チームのユニフォームを着ることなく、鹿島一筋14年で現役引退

流石の本田泰人も、30歳を越えるとスタメン起用が減り始めます。それでも、抑えの切り札的存在として、存在感を示し続けました。しかし、2002年以降リーグ優勝から遠ざかります。2005年は開幕ダッシュに成功し、一事は2位以下に大きく差をつけましたが、後半に息切れして3位に終わりました。若手の台頭などで世代交代が進み、本田は他チームでのプレーも含めた自身の進退を考える時期がやってきます。

そして2006年、鹿島は本田との契約更新をしないことを発表し、自身も鹿島の選手として現役引退することを決意します。チームの創設時期からアントラーズ一筋で14年を過ごし、10年間もの間キャプテンを務めたまさに精神的な支柱でした。チームはこの功労者に対し、2007年7月引退試合を組みました。自身の2ゴールで有終の美を飾り、同年のJリーグアォーズではJリーグ功労選手賞を受賞してユニフォームを脱ぎました。

指導者として第2のサッカー人生をスタート

現役引退後の本田泰人は、アントラーズのアドバイザーに就任しました。初めて裏方に回り、様々な改善案を出す傍ら、自身の地元に「Honda Yasuto Football Academy」を立ち上げて後進の育成にも力を入れ始めています。Jリーグ選手OB会の副会長を務めながら、将来的にはクラブのGMを目指して、第2のサッカー人生を歩んでいます。

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