名前 | 駒田徳広(コマダノリヒロ) |
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生年月日 | 1962年9月14日 |
国 | 日本 |
出身 | 奈良県 |
プロフィール | 桜井商時代、奈良のマニエルと呼ばれ、通算打率.490を誇った。
1981年ドラフト2位指名で巨人に入団。1983年にプロ初打席満塁ホーマーを放って華々しくデビューを飾ったあと不振が続いていたが、1987年復活し、“満塁男”と呼ばれた。1989年日本シリーズで7戦通算打率.522を記録しMVPに。 1994年横浜に移籍。1996年5月対中日戦で8本目の満塁ホームランを放つ。同年FA宣言するが、残留。1998年4月巨人戦で日本歴代4位タイとなる通算11本目の満塁弾を達成。同年ベストナインに選ばれる。ゴールデングラブ賞は9度獲得。2000年5月対広島戦で2000試合出場を達成し、9月対中日戦で2000本安打を達成。同月戦力外通告を受け引退。 のちプロ野球評論家としてテレビなどで活躍。2002年公開の映画「ミスター・ルーキー」に出演。2005年東北楽天ゴールデンイーグルス打撃コーチ、2009年横浜ベイスターズ打撃コーチ、常磐大学野球部の臨時コーチなどを経て、2016年からは高知ファイティングドッグス監督に就任。 通算成績は2,063試合、6,941打数2,006安打、195本塁打、953打点、35盗塁、打率.289。ベストナイン1回、ゴールデングラブ賞10回。桜井商卒、左投左打、191cm、90kg |
高校時代に長距離打者として頭角を現し、奈良のマニエルと称される
駒田徳広は奈良県に生まれ、祖父とのキャッチボールがきっかけで早くも野球好きになります。小学生時代は、王貞治に憧れましたが学校には野球部が無く、水泳部に所属していました。奈良県でも指折りの水泳選手でしたが、中学からは本格的に野球を始めます。当時から長身でしたが非力のためヒットは量産するものの、ホームランは少ないものでした。しかし桜井商業高校に進学すると長打力が備わり、エースで4番とチームの中心となります。
高校時代、あと1勝まで迫りましたが、3年間甲子園に行くことはできませんでした。しかし、高身長の強打者は、高校通算43本塁打、通算打率.490と驚きの数字を残し、無死満塁やイニングの先頭打者でも敬遠されたという逸話を持ちます。そしていつしか、近鉄時代強打を誇ったマニエルをなぞらえて「奈良のマニエル」の異名で呼ばれていました。
巨人入団後は打者転向し、プロ初打席で満塁弾デビューという離れ業
高校卒業後は大学進学を予定していましたが、1980年巨人ドラフト2位という高評価で指名されます。憧れていたチームからのまさかの指名に、一転してプロ行きを決意しました。駒田徳広は投手としての入団でしたが、1年目の春季キャンプから野手転向します。
2年間すべてを二軍で過ごすと、3年目の1983年初の開幕一軍を果たしました。すると、突然、出場チャンスが訪れます。4月早々に、一塁手レギュラーの中畑清が試合前の練習で怪我を負い、先発出場しました。7番打者でしたが初回から満塁の場面で打席が回ってきます。ここで、駒田は右翼席に本塁打を叩き込むという、プロ初打席初安打が満塁本塁打という日本プロ野球史上初の偉業(当時)を成し遂げました。そしてこの一打以降、満塁では滅法強く「満塁男」の異名を持つことになります。
同年は、背番号50番台の若手が多く活躍し優勝に貢献します。駒田(背番号50)は規定打席不足ながら12本塁打し、槙原寛己(同54)は12勝をマークして新人王、吉村禎章(同55)は規定打席不足ながら打率.326と揃って数字を残し、「50番トリオ」と呼ばれました。
中距離打者として巨人レギュラーに定着し、日本シリーズMVP獲得
衝撃のデビューを飾った翌年、巨人監督に王貞治が就任し、長距離打者として期待され一本足打法にも挑戦します。しかし、それは自身にフィットせず、3年間低迷が続きました。その間外野手にも転向し、レベルスイングで中距離打者を目指すと、1987年は113試合に出場して15本塁打と復活します。翌1988年は初めて規定打席に到達して、リーグ4位の打率.307を残しました。
1989年は一塁手にコンバートされると、7番打者ながら2年連続3割で優勝に貢献し、日本シリーズでも打率.522、1本塁打、5打点でMVPを獲得しました。同年は一塁手としてゴールデングラブ賞を初受賞し、完全にレギュラーに定着します。1990年はチームトップの22本塁打、83打点と恐怖の7番打者として活躍し、1991年は3番打者に昇格しました。打順が上がっても成績はさらにあがり、キャリアハイの打率.314、1992年はキャリアハイの27本塁打と中軸であり続けました。
巨人生え抜き選手としては、初めてFAで球団を去り横浜へ移籍
1993年、4度目のゴールデングラブ賞を受賞しましたが、股関節痛で打席成績を大きく落とします。首脳陣との確執も明らかとなり、同年オフには同じポジションの中日・落合博満のFA獲得が噂されます。出場機会が明らかに減ると悟り、駒田徳広は自身もFA宣言して移籍先を求めました。
在京球団を希望した駒田獲得に手を挙げたのは、長年の低迷から抜け出せない横浜ベイスターズでした。そして横浜は、高木豊や屋敷要など当時ベテラン主力選手たちを解雇してまで獲得資金を作ります。こうして、巨人生え抜き選手としては初めてFA移籍選手となりました。
横浜を38年ぶりの日本一に導き、自身も2000本安打達成
新天地では、32歳ながら最年長となり、成績はもちろん精神的支柱としての役割も求められました。移籍初年度は自身初のフル出場をするも、打率3割を逃しチームも最下位となります。その後も3年間、個人、チームともに成績はぱっとしませんでした。しかし、1997年5年ぶりに打率3割を達成しキャリアハイの86打点をマークすると、チームも力をつけて2位と躍進します。
そして1998年はキャプテンに就任し、優勝を目指した戦いをスタートさせます。打ち出したら止まらないマシンガン打線の5番に座り、ストッパー佐々木主浩を中心として投手陣も整備されました。唯一優勝を知る男としてチームを支え、打率3割は逃しましたが81打点と貢献します。勢いに乗ったチームは、そのまま首位でゴールインし、日本シリーズでも西武を退け38年ぶりの日本一まで上り詰めました。
1999年、チームは3位に終わりましたが、151本の安打を積み重ね、名球会入りの2000本安打まで残り73本として2000年シーズンを迎えました。しかし開幕から極度の打撃不振に陥ると首脳陣とも衝突し、大記録の達成が危ぶまれます。それでも何とか9月に2000本安打を達成しました。同年限りで現役引退しましたが、ゴールデングラブ賞受賞は歴代4位の10回を数え、満塁男の異名どおり1994年からの6年連続を含む、13本の満塁本塁打を記録しました。かつての50番トリオで名球会入りしたのは、駒田だけでした。
引退後は指導者に転身し、高知ファイティングドッグス監督にも就任
現役引退後は、野球解説者として活躍したり、東北楽天ゴールデンイーグルス、横浜ベイスターズの打撃コーチを務めます。常磐大学公式野球部臨時コーチなども歴任しましたが、2016年からは独立リーグ四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグスの監督を務めています。2017年も続投し、元メジャーリーグの大スターであるマニー・ラミレスを招聘したことでも有名なチームです。