名前 | 仁志敏久(ニシトシヒサ) |
---|---|
生年月日 | 1971年10月4日 |
国 | 日本 |
出身 | 茨城県古河市 |
プロフィール | 小学4年から野球を始め、常総学院高では1年からレギュラーで、夏の甲子園には3年連続出場。
早大に進み、六大学野球で活躍。1993年春の早慶戦でサヨナラ満塁本塁打を放ち慶大に連勝。リーグ戦史上4人目のサヨナラ満塁本塁打。個人1シーズン最多本塁打でも史上6人目の6本塁打を達成した。同年秋の優勝にも貢献。1994年日本生命に入社。同年社会人ベストナイン、1995年都市対抗優秀選手賞を獲得。 1996年ドラフト2位で巨人に入団、開幕から一軍で活躍し、打率.270で新人王を獲得。1999年対広島戦でサイクル安打を達成。1997年二塁手に転向し、1999年から4年連続でゴールデングラブ賞を受賞。 2006年オフ、横浜へ移籍。移籍後2年は規定打席に到達するなどチームに貢献するも、2009年極度の不振に陥り同年退団。2010年、アメリカ独立リーグへ挑戦も同年現役引退。2013年から侍ジャパンコーチに就任。2014年からはU-12代表監督に就任。 通算成績は1,587試合、5,933打数1,591安打、154本塁打、541打点、135盗塁、打率.268。新人王、ゴールデングラブ賞4回、日本プロスポーツ大賞。常総学院卒、早稲田大学卒、右投右打、173センチ、75キロ。 |
常総学院では甲子園3年連続出場など、野球エリートコースを歩む
仁志敏久は茨城県に生まれ、小学4年生から野球を始めます。中学時代に常総学院の名将・木内幸男監督の紹介を受けたことがきかっけで、同行へ進学しました。すでに前任の取手二高で実績のあった監督は、3年で常総学院を甲子園に初出場させ、夏の大会では仁志が1年生で唯一レギュラーとしてスタメン出場します。小柄ながらも甲子園でランニングホームランを放つパンチ力を見せて、チームの準優勝に大きく貢献しました。決勝では春夏連覇を決めたPL学園に敗れたものの、沖縄水産、人生学園、中京など強豪校を次々と倒しての決勝進出でした。その後も3年連続甲子園出場という実績を残して早稲田大学へ進学します。
2年ではバルセロナ五輪候補選手にも選ばれ、4年時は主将を務めるなど順調に過ごしました。そして4年春はリーグ最多タイの1シーズン6本塁打をマークし、秋最後のリーグ戦では見事優勝を成し遂げます。ベストナイン3度の実績をひっさげ、その後日本生命へ進むというアマチュア野球のエリートコースを歩みました。
巨人を逆指名入団すると、リードオフマンに定着して新人王獲得
1995年ドラフト会議では、巨人を逆指名してドラフト2位で入団します。前年に引退した原辰徳の背番号8が与えられ、即戦力として大きく期待されました。そしてその期待通り、仁志敏久は開幕スタメン1番打者に名を連ね、巨人が長年課題としてきたリードオフマンに定着します。
同年は主に三塁手として114試合に出場し、打率.270、7本塁打、24打点、17盗塁の好成績を残します。巨人野手では、原以来15年ぶりの新人王に輝き、同期でドラフト3位入団の清水隆行とともにルーキー二人がチームをリードしました。同年、メークドラマといわれた大逆転でのリーグ優勝を飾り、日本シリーズでは敗れましたが仁志は敢闘賞に選出されました。
プロ2年目の1997年から、二塁手への挑戦をスタートさせます。当初は慣れないポジションに苦労しますが、同じ小柄でかつて巨人の名二塁手として名を馳せた土井正三コーチの指導で徐々に自分のものにしていきました。同年以降も、トップバッターとして試合出場を続け、2年連続で二桁本塁打を放つなど、学生時代同様、小柄ながらもパンチ力のあるところを見せました。
ゴールデングラブ賞常連となり、独特のポジショニングでチームを救う
二塁手転向以降の2年間、三塁手や遊撃手を守る機会がありましたが、1999年から2009年に現役引退するまで、二塁手一本で過ごします。そして1999年には、初のゴールデングラブ賞を手にしました。そして同時に、捕手の出すサインや打者の傾向などから、自身で大胆なポジショニングをとるようになります。動物的な勘も加わり、数々の危機を救いましたが最たるプレーが2000年日本シリーズで生まれました。
ONによる監督決戦として戦前から盛り上がったシリーズは、福岡ダイエーホークスが連勝スタートし、第3戦から福岡ドームに移りました。巨人としては絶対に落とせない一戦、2回表に3点を先制しましたがすぐさま同点とされて2死二塁と勝ち越しされるピンチを迎えます。次打者は左打ちの村松有人であり、仁志敏久はあらかじめ守備位置を深めの一二塁間に移しました。予測どおり強い打球が飛んできてダイビングキャッチすると、一塁へ投げると見せかけて、ホームでランナーをアウトにし同点で止めます。
すると流れは完全に巨人に代わり、同試合に勝利を収めると一気に4連勝して日本一を達成しました。まさに仁志のビッグプレーがシリーズの勝敗を左右し、優秀選手賞も受賞しました。完全に名二塁手となり、1999年からゴールデングラブ賞を4年連続で獲得しました。
一時低迷期を脱するも、脚力の衰えが目立ち巨人退団を決意
入団以来ほぼ1番打者に固定され、6年連続規定打席に到達していましたが、2002年から低迷期に突入します。同年、原辰徳が監督に就任すると、1番清水隆行、2番仁志敏久構想でスタートしました。しかし、打撃不振に陥り怪我もあって戦線離脱します。復帰後は下位打線に追いやられ、高い得点圏打率とリーグ2位の22盗塁など存在感を示しましたが、プロ入り後初めて規定打席未到達でした。2003年も不調を抜け出せず、さらに7年連続で続けていた二桁盗塁も途絶えます。
2004年堀内恒夫監督が着任すると、再び1番打者に起用されて復活します。打率.289と3割には届かなかったものの、ともにキャリアハイの28本塁打、60打点を記録し、106得点はリーグトップの数字でした。しかし脚力の衰えはさらに顕著となっており、2005年オフには、守備力の高い小坂誠が加入し、出場機会を大きく奪われました。
晩年は、横浜、さらにはアメリカ独立リーグと渡り歩き現役引退
2006年、骨折を負うなどプロ入り後ワーストの成績に終わり、出場機会を求めてトレード志願しました。巨人もそれを受け入れて、仁志敏久は同年オフに横浜ベイスターズへ移籍します。低迷するチームにおいて、開幕から28試合連続出塁を記録するなど特に前半は絶好調でした。同年はほぼ1番打者として137試合に出場と復活したかに思えました。
しかしその後は年々衰えが目立ち、2009年は51試合の出場で、打率.159と自己最低の数字に終わり、同年でチームを去ります。2010年、38歳にしてアメリカへ渡り、独立リーグのランカスター・バーンストーマーズへ入団してメジャーリーグを目指しました。31試合に出場するも、年齢には勝てず同年6月現役引退を表明しました。
引退後は、侍ジャパンコーチ、U-12監督など野球日本代表に関わる
引退後はプロ12球団のユニフォームを着ることなく過ごしていましたが、2013年から小久保裕紀が監督を務める野球日本代表チームの内野守備・走塁コーチに就任します。2014年には、U-12代表監督にも着任し、ジュニア世代の育成に貢献しています。2015年のWBSCプレミア12、2017年の第4回WBCでもコーチを務めましたが、日本に優勝をもたらすことはできませんでした。さらに古巣の巨人においては、仁志敏久退団後、二塁手が固定されておらず大きな問題として浮上しています。