名前今岡誠(イマオカマコト)
生年月日1974年9月11日
日本
出身兵庫県宝塚市
プロフィール1992年PL学園高から春のセンバツに二塁手、3番で出場。

1993年東洋大に進学。同年東都大学野球に遊撃手として出場し、打点、本塁打の二冠を達成、春季リーグベストナインに選ばれた。1995年アジア選手権、インターコンチネンタル、ユニバーシアードに出場。1996年アトランタ五輪銀メダル。同年10月東都大学野球で通算100安打を達成。

1997年ドラフト1位で阪神に入団。1998年二塁手のレギュラーを奪い打撃力を披露するも、1999年から3年間低迷。2003年、1番打者に定着して首位打者としてリーグ優勝に貢献。2005年は、球団新記録の147打点で打点王となり、再び優勝に貢献。

しかし2006年以降低迷期に入り、2009年戦力外通告。同年トライアウトを受けてロッテにテスト入団。2012年オフ現役引退を表明。2016年からは阪神二軍コーチに就任。

通算成績は1,309試合、4,607打数1,284安打、122本塁打、594打点、17盗塁、打率.279。最多安打1回、首位打者1回、打点王1回ベストナイン3回、ゴールデングラブ賞1回。PL学園卒、東洋大学卒、右投右打、185センチ、82キロ

甲子園も経験し、東洋大学時代はアトランタ五輪銀メダルにも貢献

今岡誠は、兵庫県宝塚市に生まれ、阪急沿線に住んでいたことから阪急ファンとなりました。少年時代から宝塚シニアに所属して野球の腕を磨きます。PL学園に進学すると、1992年春に1987年の春夏全国連覇以来の甲子園出場を決めます。全3試合に3番二塁手として出場し、チームのベスト8進出に貢献しました。

その後、東洋大学へ進学すると、1年から遊撃手ベストナインに選出されるなど頭角を現します。すると大学日本代表の常連となり、数々の国際大会にも出場しました。そして4年時は、福留孝介、井口忠仁含めて3人の遊撃手がアトランタ五輪日本代表として選出されます。そして本戦では、二人を押しのけて7番遊撃手として出場し、打率.435で日本の銀メダル獲得に大きく貢献しました。

阪神を逆指名して入団し、即戦力として遊撃手レギュラーを奪う

東都大学リーグで通算100安打も達成し、今岡誠はドラフトでも注目を集めました。1996年ドラフト会議では、阪神タイガースを逆指名して1位での入団が決まります。当時の阪神内野陣は、二塁手に和田豊、遊撃手に久慈照嘉とレギュラーは固定されていました。しかし今岡は二人にない打撃力を武器として、ルーキーイヤー後半から一軍に定着し98試合に出場します。すると、当時の吉田義男監督はオフに久慈をトレードで放出してまで、遊撃手のポジションをあけて今岡に託しました。

そしてプロ2年目の1998年、2番遊撃手のレギュラーとして133試合に出場しチームトップの打率.293(リーグ10位)をマークします。本塁打こそ7本でしたが、20本の二塁打を放つなど長打力も見せつけ、時には3番打者としても活躍しました。まさに非凡な打撃センスは阪神打線では貴重な存在であり、翌年以降もレギュラーとしての活躍を疑うものはいませんでした。

野村勝也監督時代は、レギュラーを失い得意の打撃も成績を落とす

1999年、新監督に野村克也が就任すると雲行きが大きく変わりました。時に天才的なバッティングを披露するも、ポーカーフェイスの今岡誠は、監督にやる気のない選手と認識されてしまいます。同年も遊撃手レギュラーとして128試合に出場しましたが、前年の打撃成績をすべて下回り、打率は.252に終わりました。

2000年は、さらに調子を落として一軍出場は48試合に終わり、田中秀太にレギュラーの座も奪われます。2001年は、沖原佳典、藤本敦士などさらにライバルが現れたことから、三塁手としての出場を増やしましたが、打撃成績は戻りませんでした。

星野仙一監督時代、復活の首位打者に輝くなど、リーグ優勝に貢献

ヤクルトを常勝チームに変えた野村克也でも阪神監督時代は3年連続最下位に終わり、2002年からは闘将・星野仙一が新監督として就任しました。不振にあえいでいた今岡誠は心機一転して猛練習を自分に課し、新生チームにおいて蘇ります。キャンプで結果を出して二塁手レギュラーの座を掴むと、故障の赤星憲広に代わって1番打者に抜擢されます。すると122試合に出場し、リーグ5位の打率.317、15本塁打、56打点とチームの核弾頭として大活躍しました。

阪神は今岡とともに生まれ変わりましたが、2002年の順位は4位に終わりました。しかし、さらにチーム改革を進めた2003年、18年ぶりのリーグ優勝を実現します。その中心となったのも一番今岡でした。先頭打者本塁打7本を放つなど、前年に続いて核弾頭として活躍すると、打率.340で初の首位打者も獲得します。脅威の得点圏打率.428で72打点をあげて、ゴールデングラブ賞も獲得とキャリアハイの成績を残しました。

2005年は、歴代3位の147打点で打点王を獲得し優勝に貢献

2004年、体調不良の星野監督に代わって岡田彰布監督が着任すると、3番打者に抜擢されます。するとその方針に合わせるかのように打率.306、28本塁打、83打点と中軸として活躍しました。

翌2005年は、三塁手へ転向してさらに打撃に集中すると、圧巻の成績で2年ぶりのリーグ優勝に貢献します。打率は3割を割ったものの、キャリアハイとなる29本塁打、147打点という成績で不動の5番打者を務めました。ダントツで初の打点王に輝きましたが、球団新記録かつ日本プロ野球歴代3位というおまけ付で、同年の3番アンディ・シーツ、4番金本知憲、5番今岡の3人であげた357打点も、1985年の優勝時を超える球団新記録となりました。

突如低迷して阪神を退団し、テスト入団のロッテで現役生活を終える

リーグを代表する打者となりましたが、2006年以降、今岡誠が大きく輝くことはありませんでした。患った腱鞘炎(バネ指)の影響も大きく、天才的なバッティングは完全に影を潜めます。手術にも踏み切り問題は解決されたかに思われましたが、投打に精彩を欠くシーズンが続き、2009年オフについに阪神から戦力外通告を受けました。

その時点で35歳というベテランでしたが、12球団トライアウトを受けて、千葉ロッテマリーンズへの入団が決まります。2010年シーズン中は26試合出場で打率.227と戦力になれませんでしたが、プレーオフでは一瞬、かつての勝負強さを取り戻しました。日本シリーズ進出をかけてのファイナルステージでは全6試合に指名打者としてチームの勝利に貢献し、後に達成した史上最大の下克上に一役買います。そこから選手兼任コーチ時代含めて2年ロッテに在籍し、2012年シーズンで現役引退を表明しました。

引退後、解説者として過ごしていましたが、かつてのチームメイト金本知憲が阪神監督に就任すると、コーチ要請を受けます。それを受諾して、2017年現在は二軍打撃兼野手総合コーチとして後進の育成に務めています。


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