名前伊良部秀輝(イラブヒデキ)
生年月日1969年5月5日
日本
出身兵庫県尼崎市
プロフィール若草中時代からボーイズ・リーグの兵庫尼崎チームに所属し、投手で4番。尽誠学園に入学し、1987年夏の甲子園に香川県代表で出場。開会前から呼び声の高かった各校の強打者を次々と三振に仕留めたが、3回戦で茨城代表の常総学院に敗れた。

1988年ドラフト1位でロッテに入団。1993年5月対西武戦で日本最高の158キロを記録した。1994年最多勝、最多奪三振の2タイトル、1995年最多奪三振、最優秀防御率のタイトルを獲得。1996年5月通算1000奪三振を記録、また日本球界最速の158キロをマーク。

同年オフ大リーグ入りを希望して渡米、球団は独占交渉権をパドレスに譲渡。その後、ヤンキースへの三角トレードを希望するがまとまらず帰国。1997年3月再渡米。5月新人では契約金がメジャー史上最高額の850万ドル(約9億8000万円)でヤンキースと契約。傘下の1Aタンパでデビュー。6月の対セントルーシー戦では自己最速、159キロのストレートをマークした。同月2Aノーウィッチ、次いで3Aコロンバスに昇格。7月メジャーに昇格し、対タイガース戦で大リーグ初先発初勝利を挙げた。

1999年5月対ブルージェイズ戦でメジャー20勝を達成。12月マイナー3選手とのトレードでエクスポズに入団。2000年6月右ひざ半月板損傷と診断され、内視鏡手術を受ける。同年8月右ひじを手術。2001年9月シーズン途中で解雇される。2002年テキサス・レンジャーズとマイナー契約し開幕メジャー入り。クローザーとして16セーブをあげるも7月に肺血栓が見つかりシーズンを終える。

2003年、阪神タイガースと契約して日本球界復帰。先発として13勝をマークし、18年ぶりのリーグ優勝に貢献。しかし2004年怪我のため、戦力外通告を受け翌年引退を表明。以後実業家として過ごすも失敗に終わり、2009年米独立リーグで選手復帰。日本の高知ファイティングドッグスでも選手としてプレーし、同年に再引退。2011年7月、ロサンゼルスの自宅で死去。享年42歳。

NPB時代の通算成績は273試合、72勝69敗11S、防御率3.55、1,286回1/3、1,282奪三振。最多勝1回、最優秀防御率2回、最多奪三振2回、ベストナイン2回。

MLB時代の通算成績は126試合、34勝35敗16S、1ホールド、防御率5.15、514回、405奪三振。尽誠学園卒、189センチ、95キロ。右投右打

尽誠学園エースとして甲子園初出場、さらには初勝利にも貢献

伊良部秀輝は、沖縄の地で、アメリカ人の在日米軍兵士の父と日本人の母との間に生まれました。後に両親が離婚すると、兵庫県尼崎市へ移住して少年時代を過ごします。するとボーイズ・リーグで野球の才能を認められて、香川・尽誠学園にスカウトされました。入学当初から、豪腕でしたが成長期でもありコントロールが安定しません。それでも、2年夏県大会を制して同校初の甲子園行きを決めます。

聖地初マウンドは、14安打を浴びて9回に逆転サヨナラ負けというほろ苦いものとなりました。3年最後の夏も甲子園に帰還すると、浦和学院との初戦では自ら本塁打も放ち、完投で甲子園初勝利に貢献します。続く常総学院戦は11安打されて、0-6で完封負けしましたが、剛速球投手として大きな脚光を浴びました。

ロッテドラフト1位で入団し、制球難で苦しむも剛速球で名を馳せる

プロ全球団の関係者が、高校に見学に訪れるほど話題となりましたが、1987年ドラフト会議でロッテオリオンズが単独1位指名し入団が決まります。高卒ルーキーだけにじっくり二軍で育成という選択肢もある中、誰よりも速い球を投げること、当時のロッテは弱小投手陣でもあったため一軍で起用されました。1年目は14試合に登板し、プロ初勝利含めて2勝をマークします。

一軍の水に慣れた2年目、伊良部秀輝はチームのリリーフとして多くのマウンドに立ちます。そしてすでに西武ライオンズ不動の4番を張っていた清原和博を相手にすると、一段とストレートの球速が上がり、平成の名勝負としてパ・リーグの名物シーンとなっていました。

ロッテエースに成長し、3年連続で投手主要タイトルを獲得

自身のスピードは大きな話題となる伊良部秀輝でしたが、制球難から安定したピッチングができていませんでした。しかしプロ6年目の1993年、後半戦に7連勝するなど投球のコツを掴むと、翌年から一気にリーグを代表するエースへのし上がります。1994年、先発の柱として初の二桁勝利を達成し15勝で最多勝、さらには最多奪三振と一気に二つのタイトルを手にします。

翌年は、ヒルマン、小宮山悟と強力先発3本柱を形成し、チームの2位躍進に貢献しました。同年も2年連続の最多奪三振に、初の最優秀防御率のタイトルを奪います。1996年も、最優秀防御率となり3年連続で投手タイトルホルダーとなりましたが、当時の広岡達郎GMと衝突し、オフに突如メジャーリーグ挑戦を表明しました。

力技でメジャー移籍を実現するも、大きなインパクトを残せず

ロッテで問題児扱いとなり、サンディエゴ・パドレス2選手とのトレードが決まりかけます。しかし、ニューヨーク・ヤンキース一本狙いの伊良部秀輝はそれを拒否するという行動に出ました。その後、代理人の団野村氏により強引な形の三角トレードが実現され、希望するピンストライプのユニフォームを着る権利を得ます。

当初は和製ノーラン・ライアンと期待され、初登板初勝利をあげるなど順調なスタートを切りました。2年目には13勝をマークし、チームが世界一に上り詰めたため、日本人として初めてワールドチャンピオンリングを手にします。しかしポストシーズン登板はなく、3年目も11勝したものの好不調の波が激しく、マスコミを敵に回したこともあってチームを放出されました。

以後、メジャーで2チームを渡り歩きましたが、怪我も多くコミュニケーションに苦しむなど不調に陥ります。レンジャーズ時代の2002年はクローザーとして16セーブをマークしましたが、7月に肺血栓が見つかりメジャーでの戦いに終止符が打たれました。

星野仙一監督率いる阪神で日本球界に復帰し、先発として優勝に貢献

メジャーでの契約が切れた伊良部秀輝に救いの手を差し伸べたのは、星野仙一でした。2002年に阪神監督に就任するも4位に終わり、大胆な血の入れ替えを敢行する一ピースとして33歳の伊良部に白羽の矢を立てたのでした。かつての剛球イメージを捨てて、先発としてゲームメイクに徹すると13勝をあげて星野阪神の優勝に大きく貢献します。翌年もその活躍が期待されましたが、怪我もあって3試合登板に留まり、戦力外通告を受けました。

一度は選手として復帰するも、波乱の人生に自らの手で幕を閉じる

2005年3月、怪我を理由に現役引退を表明し、実業家への転身を図りました。その言葉通りロサンゼルスでうどん屋を経営していましたが長く続きません。次に伊良部秀輝の名前が世間を賑わせたのは、まさかの日本での暴力事件でした(不起訴処分)。

現役時代、首脳陣と衝突を繰り返した豪腕には指導者の道は用意されません。すると2009年、再び選手としてアメリカ独立リーグで復帰することを決意します。怪我が完治したことで、5年ぶりの登板にもかかわらず、150キロをマークするという非凡さを改めて見せ付けました。

その後、日本に戻り、四国・九州アイランドリーグの高知ファイティングドッグスへ入団します。右手首腱鞘炎で再引退になりましたが、野球を楽しむ姿にはかつての野球少年の面影が感じられました。しかし、そんな永遠の野球小僧は、意外な形で波乱の人生に幕を閉じます。2011年7月、ロサンゼルスの自宅で首を吊った状態で発見されました。孤高の天才投手は、42歳という早すぎる人生に自らピリオドを打ち、伝説となりました。


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