名前山田久志(ヤマダヒサシ)
生年月日1948年7月29日
日本
出身秋田県能代市
プロフィール富士鉄釜石(現・新日鉄釜石)時代にエースとなり、1969年ドラフト1位で阪急(現・オリックス)に入団。

1976〜1978年に3年連続MVPとなった他、防御率1位2回、勝率1位4回、最多勝3回を獲得。1988年引退し、NHK解説者となる。1994年オリックス投手コーチに就任、1995年のリーグ優勝、1996年の日本一に貢献。同年11月退団。

1997年4月再びNHK「サタデースポーツ」解説者となる。1998年10月中日投手コーチに就任。2001年シーズン終了後、監督に就任。2002年Aクラス3位を確保するも、2003年成績不振で途中解任。2006年野球殿堂入り。2009年、第2回WBC日本代表投手コーチとして、日本の連覇に貢献。

通算成績は654試合、284勝166敗43S、防御率3.18、3,865回0/3、2,058奪三振。最多勝3回、最優秀防御率2回、最高勝率4回、MVP3回、ベストナイン5回、ダイヤモンドグラブ賞5回、秋田県民栄誉章。能代高卒、右投右打、176cm、77kg

社会人時代にアンダースローへ転向し、阪急ブレーブス1位指名で入団

山田久志は、秋田県に5人兄弟の末っ子として生まれます。小学6年生で父を亡くし、中学にあがると母親の勧めで野球を始めました。中学3年時に、兄が能代高校から甲子園に出場し、同じ夢を描いて能代高校に進学します。2年生で内野手レギュラーを掴むも、自身の悪送球エラーで甲子園出場をフイにしてしまいました。しばらく自信を失っていると、監督からまさかの投手転向を言い渡されました。

その後、富士製鐵釜石に入社すると、サイドスローからアンダースローへの転向を提案されサブマリン投手が誕生します。そして1967年都市対抗野球大会に出場すると、いきなり優勝候補の日本生命を完封して一躍脚光を浴びました。同年のドラフトでは、西鉄ライオンズから11位指名を受けましたが、富士製鐵へ野球の恩返しがまだできていないと指名を断ります。そして翌年は、慣れないアンダースローから腰を痛めていたにも関わらず、阪急ブレーブスから栄えある1位指名を受けて、プロ挑戦が始まりました。

3年目に頭角を現すも、日本シリーズでサヨナラ弾を浴びて挫折を味わう

1968年のドラフトは、田淵幸一、山本浩司、星野仙一、東尾修らが揃って1位でプロ入りするなど、稀に見る豊作と言われました。中でも2位で加藤秀司、7位で福本豊など後に名球会入りする3名を獲得した阪急は最高傑作といわれます。しかし、山田久志の入団直後は決して順風満帆ではありませんでした。

1年目は7試合9イニングだけ一軍試合を経験したに過ぎませんでしたが、チームは1967年からリーグ3連覇と投手王国を築いていました。2年目の1970年、開幕から一軍で投げ続けますが7連敗と全く結果がついてきません。それでも当時の西本幸雄監督は山田を二軍に落とすことなく起用し続けます。結局チーム最多となる52試合に登板し10勝17敗と大きく負け越し、優勝候補だったチームも4位に沈みました。

しかし、この経験を糧とすると翌年一気に才能を開花させます。防御率2.37で最優秀防御率のタイトルを奪い、チームトップの22勝で2年ぶりの優勝の原動力となりました。アンダースロー投手ながら速球派の23歳は、怖いもの知らずで日本シリーズにも挑みます。第2戦にも先発して7回4失点だった山田は、第3戦にも先発します。1-0とわずか1点のリードを守り、9回2死まで巨人打線を3安打に抑えていました。しかし9回裏に2死一二塁でバッター王貞治という大ピンチを迎えます。得意のストレートを投げ込みましたが、まさかの逆算サヨナラ本塁打を浴びて、マウンドで動けなくなりました。

シンカーを修得し、史上初の3年連続MVPするなど阪急黄金時代を牽引

初めて味わった大きな挫折を胸に、1972年は20勝で初の最多勝を獲得しましたが、速球一本のスタイルは限界を迎えます。1975年には初の開幕投手を任されましたが、年間防御率は4.32と大きく落ち込みました。そこで山田久志はモデルチェンジにトライし、チームメイト足立光宏が得意としていたシンカー修得に励みます。通常のアンダースロー投手と異なる手首の角度をもっていたことが幸いし、独特な軌道を描く「山田シンカー」を完成させました。

1976年からは、伝家の宝刀シンカーを武器に、史上初の3年連続シーズンMVPを獲得してチームの黄金時代を牽引します。同年は26勝で2度目の最多勝に、最高勝率、1977年は2度目の最優秀防御率のタイトルを獲得しました。同年の巨人相手の日本シリーズでも、2勝1敗1セーブの活躍でMVPを奪い、日本シリーズ3連覇の立役者となりました。

阪急最後の年、史上最高のサブマリンも通算284勝で現役を引退

1982年、プロ14年目33歳にしてアンダースロー投手初の通算200勝を達成します。パ・リーグの4番打者は、山田久志のボールを打ち砕いてこそ真の大打者と認められるほどリーグを代表する投手となりました。オールスターゲームにも13度出場しており、通算7勝(0敗)は最高記録です。

阪急ブレーブスの優勝ペースは落ちましたが、1975年から開幕投手を12年連続で務めるなどチームの顔として、17年連続で二桁勝利もマークしました。そんな史上最強のサブマリンも年齢から来る衰えに苦しみ始めます。当時から西武ライオンズが黄金時代を迎え、1986年にはルーキーの4番清原和博にも力負けのアーチを打たれていました。

そして1987年、12年間務めた開幕投手を佐藤義則に奪われ、通算2000奪三振を宣言どおり清原から奪ったものの、シーズン7勝に終わり連続二桁勝利も途切れました。1988年は開幕から膝の故障で苦しみ、ついに現役引退を決意します。現役最後の試合は、見事な完投勝利するも、目標としていた通算300勝には16勝及ばずグラウンドを去りました。この年で、球団はオリエント・リースへの売却が決まったため、阪急ブレーブスの歴史も山田とともに終焉を迎えました。

引退後はオリックス、中日コーチ生活を経て、中日監督を2年歴任

現役引退後はしばらく解説者を務め、1994年からオリックス・ブルーウェーブのコーチに就任します。そして1995年からのチーム連覇にも貢献しました。1999年からは、同期の星野仙一が監督を務める中日ドラゴンズの投手コーチに就任します。いきなりリーグ優勝を達成し、2001年にヘッドコーチを経て、2002年からは中日監督を引き継ぎました。

前年5位と低迷したチームをAクラス3位へ導きましたが、2年目の2003年シーズン途中に成績不振で監督解任となります。短い着任期間でしたが、イップスに悩む福留孝介を外野手へコンバートし、荒木雅博、井端弘和という若い二遊間を起用し続け育成したことには定評がありました。その後は、再び解説者に戻り、2006年に野球殿堂入りを果たします。また2009年には、第2回WBC日本代表投手コーチとして、日本の連覇に貢献しました。


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