名前 | 石井浩郎(イシイヒロオ) |
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生年月日 | 1964年6月21日 |
国 | 日本 |
出身 | 秋田県南秋田郡八郎潟町 |
プロフィール | 秋田高から早稲田大学に進み、クリーンアップを打つ。1986年秋のシーズンで歴代7位の通算15本塁打を達成した。
卒業後はプリンスホテルに入社し、1989年チームの都市対抗優勝の原動力となる。また全日本チームの4番を打った。 1990年近鉄にドラフト3位で入団、ジュニアオールスター戦で2本塁打を放ちMVPを獲得。同年規定打席に満たないながら、打率3割、22本塁打を記録。1994年33本塁打、111打点で打点王を獲得。1993年、1994年ベストナインを獲得。 1996年オフ球団の提示した年俸をめぐって粉糾、近鉄と契約直後に巨人に移籍。1999年シーズン終了後、トレードでロッテに移籍。2001年10月退団し、同年11月横浜に移籍。2002年限りで現役引退。 2004年西武二軍監督に就任も1年で退任。2010年参議院議員選挙に当選。2016年7月再選。背筋200キロ、握力65キロで、200キロのバーベルを挙げる。1997年1月シンガーソングライターの岡村孝子と結婚。 通算成績は974試合、3,091打数894安打、162本塁打、536打点、7盗塁、打率.289。打点王1回、ベストナイン2回。早稲田大学卒、右投右打、183センチ、90キロ。 |
憧れの早慶戦で活躍し、社会人時代は都市対抗で優勝してプロ入り
石井浩郎は秋田県に生まれ、小学生時代から野球を始めました。甲子園に行くこと、さらに早慶戦にも憧れを持ったことから県内でも有数の進学校である県立秋田高校へ進学します。野球はもとより剣道部も全国3連覇経験があり、最近では東京大学合格者も出る、まさに文武両道を絵に描いたような高校でした。毎日勉学に野球に精を出し、高校通算32本塁打を放つなど主力として活躍しましたが、甲子園には縁がありませんでした。
卒業後は一般入試で早稲田大学に合格し、野球部でもクリーンナップとして活躍します。憧れだった早慶戦で4年時に1試合2本塁打を放つなど、リーグ戦15本塁打を記録しました。その後はプリンスホテルに入社し、勤務しながらも野球を続けると、当時全日本の4番も任されます。そして1989年の都市対抗では見事優勝を果たし、同年のドラフト会議で近鉄バファローズから3位指名を受けました。
即戦力として1年目から打率3割、22本塁打と大活躍を見せる
1989年ドラフト会議では、都市対抗野球大会25イニングで39三振を奪った野茂英雄(新日鐵境)に大注目が集まりました。当時史上最多の8球団が1位指名で競合し、最後の残りクジを引いた近鉄に入団が決まります。石井浩郎も、その近鉄から3位指名を受けて野茂の同期として入団しました。キャンプから野茂フィーバーとなる中、自身は肝炎を患い入院するという出遅れでのスタートとなりました。
しかし5月には一軍初出場を果たし、ジュニアオールスターでもMVPを獲るなど即戦力の期待通り頭角を現します。規定打席には到達しませんでしたが、持ち前の長打力を披露して、打率.300、22本塁打、46打点と素晴らしい成績を残しました。シーズン終盤には5番打者を任されるなど早くもチーム不可欠の存在にのし上がります。しかし、野茂が投手4冠に沢村賞などタイトルを独占する活躍を見せたため新人王受賞を逃しました(優秀新人賞としてパ・リーグ特別表彰)。
近鉄いてまえ打線、不動4番打者として5年連続20本塁打を達成
1991年は開幕4番に抜擢されてスタートします。チームも前半戦を首位で折り返しましたが、故障離脱したブライアントの穴は大きく、石井浩郎も96試合の出場に留まり優勝を逃しました。1992年、6月以降はほとんどの試合で4番を務め、初出場したオールスターでも本塁打を放ちMVPに輝きます。ジュニアオールスターとのダブルMVP受賞は蓑田浩二に次いで二人目であり、2016年末現在もわずか4人しか達成していません。同年も打率.290、29本塁打、89打点と安定した成績を残しました。
そして1993年からは、「近鉄いてまえ打線」の4番として2年連続フル出場を達成します。1993年は147安打でリーグ最多安打を記録し、22本塁打、80打点、1994年には、オールキャリアハイの打率.316、33本塁打、111打点の成績で打点王を獲得しました。本塁打も2本差の2位、打率も3位とまさに頼れる4番として機能しましたが、どうしても優勝することができません。1995年も4番として出場し続け、当時のプロ野球記録の362試合連続試合出場を達成しました。しかし6月に記録が途切れると成績も下降し、わずか47試合出場で、打率.276、6本塁打17打点に終わります。入団以来5年連続で続けてきた20本塁打には遠く及ばず、再起を賭ける1996年は左手首骨折で2試合の出場に終わりました。
近鉄退団後も故障に泣かされ、再び輝きを放つことなく現役引退
結局1996年オフに、石毛博史・吉岡雄二との2対1の交換トレードで巨人へ移籍します。開幕直後に左手首を骨折し、復帰に約3ヶ月を要しましたが、ド派手な巨人デビューを飾りました。復帰2試合目の横浜戦は、0-1とリードされた状態で、絶対的守護神であった佐々木主浩がマウンドに上がります。巨人打線が大の苦手としていた佐々木から、起死回生の同点アーチを叩き込みました。その後、4番として出場を続けましたが、再び怪我で戦線離脱しました。
1998年は74試合、1999年も91試合と出場機会を増やしましたが、強力巨人打線ではスタメン機会があまりなく、2000年からロッテへ移籍します。同年は開幕戦から4番に座り、2年連続二桁本塁打と意地を見せましたが、出場機会を奪ったのはやはり怪我でした。後半に左手首を骨折して離脱すると、移籍2年目は再び代打要員となり、戦力外通告を受けます。2002年、横浜で4球団目のユニフォームを着ましたが、打率.208、0本塁打に終わり、現役引退を表明しました。
実業家転身、そして2010年以降は政界進出して議員生活を続行中
引退後は、飲食店経営を手がけるなど実業家に転身しました。また2004年には野球界に復帰して、わずか1年でしたが西武ライオンズの二軍監督を務めます。そして2010年から、石井浩郎は新たなチャレンジとして政界へ進出しました。同年夏の参議院選挙に自由民主党公認を得て出馬し初当選します。その後、一貫して教育・文化・スポーツの分野に携わり、2016年7月に再選を果たしました。