名前 | 岩本勉(イワモトツトム) |
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生年月日 | 1971年5月11日 |
国 | 日本 |
出身 | 大阪府八尾市 |
プロフィール | 小2で八尾北リトルに入り、6年の時全国優勝。阪南大高3年の1989年夏は不祥事件で大阪府大会出場を辞退。
翌1990年ドラフト2位で日ハムに入団。1995年7月対西武戦でプロ初勝利。1996年9月対オリックス戦でプロ初完封。1998年、1999年と2年連続開幕戦完封勝利を挙げる。パ・リーグでは37年ぶり2人目の快挙。同年はキャリアハイの13勝をマーク。2000年、2002年も開幕投手を務めるも、不調が続き、2005年限りで現役引退。愛称“ガンちゃん” 通算成績は239試合、63勝79敗3S、防御率4.44、1,244回1/3、885奪三振。阪南大高卒、右投右打。182センチ、87キロ。 |
甲子園を目指す最後の夏は、1球たりとも投げずして終わる
岩本勉は大阪府八尾市に生まれ、幼少期から一つ下の弟と一緒に野球ボールで遊ぶようになりました。小学2年からは「八尾北リトル」に入って本格的に野球を始めます。高学年になると、学校へ行く前に10キロのランニングを欠かさず続け、投手に必要な足腰を鍛え上げました。そして6年生になると、エースとして同級生の種田仁とともに全国優勝を成し遂げます。この頃から、時にイップスに陥ることもありましたが、騙しだましピッチングするコツも身に着けていました。
その後、藤井寺シニアリーグを経て阪南大高へ進み、甲子園を目指しましたが、出場できないまま2年が過ぎます。3年最後の夏は、高校球界No.1右腕の称号を得て大きく注目されました。しかし2年生の暴力事件が発覚し、夏の予選大会出場辞退を余儀なくされます。結局、ベールを脱ぐことなく、種田ら率いる上宮高校の快進撃を悔しく見守るだけに終わりました。
ドラフト2位で入団も極度のイップスを発症し、引退危機が迫る
甲子園へチャレンジすることはできませんでしたが、岩本勉の実力は評価されており、1989年ドラフト2位で日本ハムファイターズに指名されます。高卒ルーキーのため、1年目はファームでゆっくり体作りに専念し、2年目にはプロ初登板含めて5試合に登板しました。順調にプロとしての階段を登っていたかと思われましたが、大きな落とし穴が待っていました。
1992年、幼少期も経験したイップスを再び発症し、全く投球ができなくなります。試合はおろか、投球練習すらできない酷い状態だったため、当然一軍登板なしに終わりました。原因は不明のままで、4年目は室内練習場のネット相手に1日1000球投げ続けるという荒療治も試します。ようやく夏場に打撃投手を務められる程度に回復しましたが、とても一軍へ復帰できるレベルでもありません。シーズン終盤のファームの試合で、完治していませんでしたがマウンドにあがりました。震えも止まらない綱渡りの登板でしたが、何とかアウトを捕ります。しかし2年連続で一軍登板なしに終わり、オフにはいわゆるクビの整理選手対象に名前が挙がっていました。
フォーム変更でイップスを克服し、プロ初勝利を完投でマーク
当時監督を務めていた大沢啓二の鶴の一声で残留が決まるも、岩本勉はイップスを克服したわけではありません。しかし、秋季キャンプで高橋一三コーチのアドバイスに活路を見出します。守備練習では普通に投げられることに気づくと、サイドスロー転向を言い渡されました。これが岩本にフィットし、ファームで実戦を重ねます。怖くてマウンドに上がれなかった男が、イースタンで月間MVPに輝くなど復活し、3年ぶりの一軍登板復帰も果たしました。
1995年、投球フォームをスリークォーターに変更してシーズンに臨むと、一軍でリリーフとして定着します。そして結果を残し続けると7月には先発のチャンスが舞い込み、完投でプロ初勝利を手にしました。後半は先発ローテーション投手の一角として、3勝に終わりましたが初めて規定投球回数をクリアして、リーグ8位の防御率3.07を残しました。
37年ぶりのパ・リーグ記録、2年連続開幕戦完封勝利を達成
1996年、岩本勉は栄誉ある開幕投手として一軍マウンドに立ちます。日本ハムは、1988年からの8年間でエース西崎幸広が7度開幕投手を務めていましたが、同年は雨によって2日開幕が流れ、岩本に大役が回ってきました。同試合は0-1で惜しくも敗れるも、その後オール先発で27試合登板し、10勝9敗と初の二桁勝利をマークします。しかし1997年は、開幕から調子が上がらず7勝に終わりました。
そして1998年、再び代役ながら2度目の開幕投手を務めると、完封勝利を挙げて最高のスタートを切ります。そこから好調を維持して前半戦だけで10勝をマークしました。後半は勝ち星を一つしか伸ばせませんでしたが、リーグ最多の10完投と無尽蔵のスタミナを披露します。さらに翌1999年も開幕投手を任されると、37年ぶりとなる2年連続開幕戦完封勝利という偉業を成し遂げました。チームの勝ち頭となる13勝をあげて、2年連続のリーグ完投数を記録します。完全に自信を取り戻し、チームのエースとなった岩本は、ヒーローインタビューで、お馴染みの「まいどっ!」というフレーズでも大人気でした。
通算5度の開幕投手を任されるも、不調から抜け出せず現役引退
2000年も3年連続4度目の開幕投手を務め、松坂大輔(西武)と互角に投げあいましたがチームは敗れます。その後も先発としてローテーションを守りましたが、防御率は5点台と不安定で、成績も6勝11敗と大きく負け越しました。翌年も、ほぼ変わらないピッチングで7勝12敗に終わり、チームも最下位に沈みます。
復活を期して、2002年も5度目の開幕投手に抜擢されましたが、同年は不調に故障が加わり、わずか4試合しかマウンドに立てませんでした。以降も先発としてチャンスを与えられましたが、生かすことができません。2005年には、交流戦において初めて日本人投手として本塁打を放ちましたが、これ以外に目立つ活躍はなく、同年限りで自由契約となりました。現役続行を望みましたが獲得球団はなく、同年限りでユニフォームを脱ぎました。
現役引退後は、指導者へ転身することなく、ホリプロと契約して解説者生活に精を出しています。明るいキャラクターを前面に押し出し、得意の関西弁でのトークはファンに愛されています。