名前和田一浩(ワダカズヒロ)
生年月日1972年6月19日
日本
出身岐阜県岐阜市
プロフィール小学4年で野球を始める。岐阜商2年の1989年、夏の甲子園に出場。東北福祉大では主将・4番打者を務め、1992年の春にMVPを獲得、全日本代表にも選ばれる。この間、首位打者1回、ベストナインも2回獲得。のち神戸製鋼に入社。社会人通算で打率.429、9本塁打、21盗塁をマーク。

1997年ドラフト4位で西武に入団。正捕手・伊東勤の存在が大きく、5年間は代打中心の出場に留まる。2002年、正式に外野手へ転向すると打率.319、33本塁打、81打点の成績を残し、不動のレギュラーとなる。2005年には初タイトルとなる首位打者、最多安打をダブル受賞。

2007年オフ、FA権を行使して中日に移籍。2010年にはキャリアハイの成績で、MVPを奪い優勝に貢献。2011年レギュラー獲得後初めて大スランプに陥る。2015年、42歳11ヶ月という史上最年長での通算2000本安打を置き土産に現役引退。

通算成績は1,968試合、6,766打数2,050安打、319本塁打、1,081打点、76盗塁、打率.303。最多安打1回、最高出塁率1回、首位打者1回、MVP1回、ベストナイン6回。岐阜商業高校卒、東北福祉大学卒、神戸製鋼出身、182センチ、83キロ。右投右打

強打の捕手も、高校、大学と指名がかからず24歳でプロ入り

和田一浩は岐阜県に生まれ、小学4年生から本格的に野球を始めます。地元中日ドラゴンズの大ファンであり、自身と同じ捕手だった中尾孝義選手に憧れていました。そして青山中学から県立岐阜商業高校へ進学した頃にははっきりとプロを目標にし、その登竜門として甲子園出場を目指します。2年時の1986年、見事春夏連続で出場しましたが、控え捕手の立場を抜け出せずともに初戦敗退しました。3年時は県予選で散り、結局甲子園の土を踏まずに高校生活を終えます。

その後、東北福祉大学へ進学すると、打撃の才能が大きく開花します。4年間で首位打者1回、MVP1回、ベストナイン2回と中軸として定着し、大学日本代表にも選出されました。しかしここでもプロからの指名はなく、社会人野球の神戸製鋼へ進みます。サラリーマン生活をしながら2年間野球を続け、通算打率.429と相変わらずの強打を残し、ようやくプロからの指名がかかりました。

正捕手・伊東勤という壁に遮られ、外野手として徐々に頭角を現す

1996年、西武ライオンズからドラフト4位指名を受けて捕手として入団します。しかし、西武には、絶対的な正捕手・伊東勤が君臨していました。若くして扇の要に座り、黄金時代も牽引してきたベテランはそうそうポジションを譲ってくれません。さらに第2捕手として、中嶋聡もいたため、ルーキーイヤーは代打としての出場がメインになりました。

2年目からは打撃を生かすために、外野手への挑戦をスタートさせます。36試合と少ない出場ながら、プロ初本塁打を含む3本塁打と非凡なセンスをみせました。5年目の2001年には、期待をこめて初の開幕スタメン捕手にも抜擢されます。しかし伊東の牙城を崩すには至らず、外野手としての出場を重ねていきます。すると82試合で打率.306、16本塁打と相変わらずの打撃力を見せていました。

正式に外野手へ専念すると、一気にリーグを代表する選手へと成長

2002年、チームの監督に伊原春樹が就任すると、和田一浩は捕手を諦めて外野手一本で勝負することを決断しました。すると、不動の5番打者として定着し、これまでの鬱憤を晴らすかのように打ち始めます。同年は初めて規定打席に到達し、打率.319、33本塁打、81打点と中軸にふさわしい成績を残しました。

不動のレギュラーとなると、高いレベルで安定した成績を残していきます。2002年から7年間で打率3割を逃したのは、2006年(.298)の1度だけであり、2003年は.346という高打率を残し、2005年は153安打で最多安打、打率.322で首位打者も奪いました。もちろん勝負強さも健在で、2004年はそれが顕著でした。一発勝負のアテネ五輪ではレギュラーとして全9試合に出場し、打率.333、2本塁打、6打点と日本代表として大活躍します。さらに同年はチーム2位でプレーオフに進出すると、自身のサヨナラアーチで2ndステージ進出を決めました。そして日本シリーズでも、打率.310、4本塁打、6打点で12年ぶりの日本一に大きく貢献しました。

FAで中日へ移籍後も、安定した打撃成績でチームの優勝に貢献

2007年、通算1000本安打を達成し、初めてFA権を取得します。そして、オフにはFA宣言し、幼少の頃から憧れていた地元・中日ドラゴンズへの移籍が決まりました。和田一浩は西武時代同様、5番に座り、中軸として活躍をしていきます。初年度こそ初のセ・リーグで16本塁打、74打点と長打力はそこそこでしたが、2年目にはフル出場して、すべてリーグトップ10以内の打率.302、29本塁打、87打点という和田らしい安定した成績に戻しました。

そして2010年は、4年ぶりのリーグ優勝の大きな原動力となります。2年連続フル出場を達成し、すべてチームトップの打率.339、37本塁打、93打点とキャリアハイの成績を残し、初のMVPに輝きました。同年は最高出塁率、そして移籍後初のベストナインも受賞とまさに最高の一年を過ごしました。

遅咲きの選手ながら、晩年に安打を積み重ねて通算2000本安打達成

2010年、キャリアハイのシーズン171安打を放ちましたが、腰への負担が少ない打撃フォームへ変更します。しかし、これが裏目に出ると、さらには統一球の導入の影響もあって、自身初のスランプに陥りました。2011年はキャリアワーストの打率.232と落ち込みます。この時点で通算2000本安打まで400本を切っていましたが、その達成が危ぶまれるほどの不調でした。

2012年、さらにフォームを改造すると、9本塁打と長打力が落ちましたが、145安打、打率.285(リーグ8位)と復調します。同年の中日は2位とAクラスをキープしましたが、和田含めた主力メンバーが大ベテランとなった2013年以降、中日は大きく順位を落としました。2013年、40歳の和田は約半数の試合で4番を任され、打率.275、18本塁打、76打点を記録しましたが、12年ぶりのBクラスに転落します。2014年も、7月には月間MVPを獲得するなど、年齢を感じさせないプレーを見せて、節目の2000本まで残り15本まで近づきました。しかし、8月に死球骨折を負い残りのシーズンを棒に振ります。

2015年、和田は当初若いメンバーにスタメンを譲っていました。しかし、中々結果が伴わず、5月末から出場を重ねます。そして6月11日、史上45人目の通算2000本安打を見事達成しました。チームの監督であり、かつての同僚だった谷繁元信の記録を更新する42歳11ヶ月という史上最年長達成記録です。大学、社会人を経由しての大記録達成は古田敦也、宮本慎也以来3人目でしたが、30歳で初めて規定打席に到達してからの2000本安打達成は史上初でした。長打力こそ落ちましたが、同年も打率.298とまだ余力を残していましたが、若返りを図るチームのため、同年限りで現役引退を決意しユニフォームを脱ぎました。

VICTORYアスリート名鑑

著者プロフィール VICTORYアスリート名鑑

VICTORYアスリート名鑑編集部のアカウントです。