ブル中野について

名前ブル中野
生年月日1968年1月8日
日本
出身埼玉県川口市
プロフィールアントニオ猪木にあこがれ、83年全日本プロレスに入門、即デビュー。同年新人王。

85年からダンプ松本に従い悪党ファイトの修業を重ねる。松本引退後、88年新ヒール軍団・獄門党を結成。90年1月ヒール史上初のWWWA世界チャンピオンになる。アジャ・コングとは金網デスマッチや髪切りマッチで抗争を展開。91年全日本女子プロレス大賞ではMVPとベストバウトを受賞。

得意技はギロチン・ドロップ、パワーボム。8年アメリカ・チャンピオン・タイトルマッチを目前にして、ひざに再起不能の大けがを負う。98年よりプロゴルファー転向を目指す。3年CD「鉄と鎖のレクイエム」、自伝「金網の青春」を発表。170センチ、90キロ。

全日本女子プロレス所属。

プロレス好きの少女が女子レスラーの新人王に

ブル中野がプロレスに興味を持ち出したのは母親の影響でした。中野の幼少期の頃にプロレス界を圧倒していたアントニオ猪木に中野は憧れを抱いていましたが、一方でプロレスは見るものというイメージがあり、まさか自分がやるとは思っていなかったと後に語っています。

しかし、アントニオ猪木への憧れから全日本プロレスへの入門試験を受け、3回目の試験となった83年に念願の合格を果たします。その当時の中野は本名の「中野恵子」名義でリングに上がっていました。当時から中野は170センチという長身が武器になりましたが、一方で運動神経は鈍かったと言われ、中野は人一倍努力を重ねました。

その努力が実り、中野は間もなくリングデビューを果たすと、好成績を収めてこの年の新人王に輝き、さらに当時の女子プロの看板選手、長与千種の付き人を担当するなど、出世頭となりました。

ダンプ松本の影響で、極悪同盟に加入

デビュー間もなくから活躍を収めていたブル中野。そんな中野を最も高く評価していたのは師匠にあたるダンプ松本でした。ヒールレスラーだった松本は中野をヒール側に呼び込み自身とタッグを組みたいと説得しますが、当時ベビーフェイス側だった中野はこれに猛反対しました。何度も断りましたが、最終的には松本の熱意に押される形で85年に極悪同盟に加入しました。そしてこれをキッカケにリングネームを本名から「ブル中野」へと変更します。

極悪同盟加入後、中野はパンクをモチーフにしたヒールのメイクでブレイクします。タレ目のかわいらしい目元でデビュー当時「パンダちゃん」という愛称があった中野ですが、ヒール風のメイクで一気に悪役になると、ヌンチャクを凶器にするギミックチェンジを果たします。その後、ダンプ松本とタッグを組みプロレスファンの人気を博していきます。

そしてこの頃、中野はトップレスラーの地位を確立しますが、その一方でパンプアップに悩んでいたと言います。そのため、当時の給料をすべて費やしてトレーニングに励み、90キロから100キロへの増量を果たしました。

88年にはタッグを組んだ松本が引退したため、中野は自身がリーダーとなる獄門党を結成します。ここにはグリズリー岩本、アジャ・コング、バイソン木村らの実力派レスラーを多数従え、ヒールの頂点として活動します。この頃から中野のメイクは変化し、髪を青く染めて逆立てるというスタイルになります。

中野がタイトルを奪取したのは90年でした。WWWA世界シングル王座決定トーナメントで西脇充子を破って優勝を飾った時でした。ヒールにしてチャンピオンになるという史上初のケースでしたが、以来中野は3年間、チャンピオンの座を堅守しました。その圧倒的な強さは“女帝”という異名にふさわしいもので、中野は全日本女子プロレスの中心選手になりました。

ヒールでも王者に。女子初の偉業も達成

ヒール史上初と言えるチャンピオンになったブル中野。本来のプロレスはベビーフェイスがヒールを破るという勧善懲悪なシナリオがありましたが、中野の登場からその構造が崩れていきます。さらにアジャ・コング、バイソン木村らが独立したことで従来ならばあり得なかったヒール対ヒールというマッチングも発生し、女子プロレスはかつてないほどの盛り上がりを見せました。

中でも話題になったのが中野とアジャ・コングの金網デスマッチの死闘でした。女子プロレスでは今までなかったシチュエーションでの対戦や男子でもあまり見られない大技のムーンサルト・プレスなどの華麗な技が見られるようになったのも中野の功績と言えます。アジャとの対戦は91年の全日本女子プロレス大賞でMVPとベストバウトを受賞するなど、ファンからも支持されました。

そんな中野ですが、92年、アジャに敗れてWWWA世界シングル王座を失った後、翌93年からアメリカのWWFへ長期遠征を敢行しました。女子戦線のトップヒールとしてアランドラ・ブレイズらと抗争することになります。その一連の対戦の中で中野はWWE世界女子王座を獲得します。この偉業は日本人初であり、今もなお、並ぶ選手は現れていません。

世界女子王座を獲得した中野は94年に帰国し、神鳥忍とのチェーンデスマッチで復帰戦を迎えます。得意技のギロチンチョップはこの試合でも威力を発揮し、チェーンを脚に巻き付けながら放ったダイビング・ギロチンチョップが決め手となって勝利を収めました。

ケガによる引退、15年越しの引退試合

しかし、ブル中野のレスラーとしてのキャリアはここまでで止まってしまいます。その原因となったのは故障でした。97年に中野は左靭帯を2本切るという大ケガを負ってしまい、事実上リングに上がるのは不可能になりました。そのため中野は無念の引退を余儀なくされてしまいます。

「レスリングができなくなってもスポーツはできる」と考えた中野が次に目指したのはプロゴルファーの道でした。2000年にアメリカへゴルフ修行を敢行し、グリーンカードを取得しましたが、残念ながらプロゴルファーのライセンスは合格せず、08年に帰国します。

その後中野は10年にムエタイ選手の青木大輔と結婚し、飲食店を経営するという第二の人生を歩んでいましたが、正式な引退試合をしていませんでした。そして、12年の1月に東京ドームシティホールで引退試合を敢行しました。伝説のヒールレスラーが最後に試合に出てから15年のブランクを経て、現役生活にピリオドを打ちました。


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