名前 | 藤井秀悟(フジイシュウゴ) |
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生年月日 | 1977年5月12日 |
国 | 日本 |
出身 | 愛媛県伊予市 |
プロフィール | ボーイズリーグ・松山クラブから投手として活躍。中学3年で全国大学3位、今治西高では1年生の秋からエース。
1994年秋の県大会から5試合連続完封、準々決勝の対三島高戦ではノーヒット・ノーラン、四国大会決勝対高知高戦では17奪三振、四国大会で計41奪三振。1995年春センバツ出場、富山商から10三振を奪った。 1995年アジア・ジュニア選手権の全日本選抜に選ばれる。早大に進学し、2年生から主戦投手として活躍、1997年の秋のリーグ戦ではベストナインに。 2000年ドラフト2位でヤクルトに入団。2001年4月対中日戦でプロ初完投勝利を挙げる。同年6月対広島戦で初完封。同年14勝を挙げ最多賞、ベストナインを獲得し、チームも日本一達成。2002年も2年連続二桁勝利を達成するも、翌年に左肘を故障して戦線離脱。2005年から先発として復帰するも負け越しが続く。 2007年オフ、トレードで日本ハムに移籍。2年間ローテーション投手として計10勝をマーク。2009年FAで巨人へ移籍。2010年はローテーション投手として7勝も、2011年は出場機会がなく、2012年1月、FA人的補償で横浜DeNAへ移籍。2年間、先発ローテーション投手として存在感を示すも、2014年オフ戦力外通告。2015年からは古巣巨人の打撃投手に転身。 通算成績は284試合、83勝81敗2ホールド、防御率3.77、1,463回1/3、1,064奪三振。最多勝1回、ベストナイン1回。今治西高校卒、175センチ、86キロ。左投左打 |
伊予の怪腕として甲子園ベスト4、早大時代も大学選手権準優勝
藤井秀悟は、愛媛県伊予市に生まれ、父親に半ば強引な形で野球をやらされます。リトルリーグ時代、全国ベスト4を達成し、中学の松山クラブ時代は全国3位と着実に実績を積みました。その後今治西高校に進学すると、1年秋からエースとなります。
2年秋季大会でノーヒット・ノーランを含む5試合連続完封を達成すると、四国大会でも3試合で41三振を奪い優勝を成し遂げました。「伊予の怪腕」として恐れられ、1995年春のセンバツ出場も決まります。甲子園の2回戦で公式戦無失点記録が51回でストップするも、チームは準々決勝に進出しました。同試合でもいいピッチングを見せましたが、9回に左肘靭帯を損傷してマウンドを去ります。その後は打者としても活躍し、サヨナラ勝利に貢献しましたが準決勝で敗れました。
早稲田大学に進学しても主力投手として活躍し、2年秋にベストナイン、4年春にはチームを11季ぶりの優勝に導きます。大学選手権では、後にチームメイトとなる石川雅規(青山学院大学)に決勝で敗れましたが、見事に準優勝を達成しプロスカウト注目を集めました。
2年目には先発の軸として最多勝タイトルを奪い、日本一を経験
1999年ドラフト会議では、ヤクルトスワローズを逆指名しドラフト2位で入団します。1年目からオールリリーフで31試合に登板し、プロ初勝利も記録しました。オフにスライダーやチェンジアップを覚えるなど変化球に磨きをかけると、2001年、手薄となった先発投手陣の救世主となります。チームトップの防御率3.17を残し、巨人戦5勝を含む14勝で最多勝にも輝きました。打者8人が規定打席に到達するという充実ぶりで、4年ぶりのリーグ優勝を経験します。日本シリーズでは、チームは4勝1敗と圧勝しましたが、唯一敗れた第2戦で先発しKOされました。
2002年、前年までのエース石井一久がメジャー移籍したため、藤井秀悟はエースとして開幕のマウンドを任されます。見事開幕戦に勝利し、同年の防御率3.08はチームトップでしたが、要所を締められず10勝9敗に留まりました。
古傷を痛め離脱すると、エース候補から抜け出せない日々が続く
3年連続二桁勝利をあげてエースの座を守りたいところでしたが、2003年は開幕早々に古傷の左肘を痛め戦線離脱します。靭帯断裂の為、手術を余儀なくされ同年の登板はわずか1試合に終わりました。翌年420日ぶりの復帰を果たすも、4勝6敗と平凡な成績に終わり、8月には左膝靭帯を損傷して離脱と戦力になれません。
その間、エースの座を石川雅規に奪われましたが、2005年、復活の兆しを見せます。前半戦から好調を維持し、先発投手陣の柱として防御率、投球回数、勝利数、奪三振数などすべてチームトップでしたが、10勝12敗と負け越しに終わりました。すると翌年、翌々年と防御率を悪化させ、2007年オフにはトレードで日本ハムへの移籍となりました。
中堅先発投手として、移籍した2球団でリーグ優勝に貢献
当時の日本ハムファイターズには、ダルビッシュ有が大エースとして君臨していましたが、藤井秀悟は貴重な先発左腕として多くの機会が与えられました。打線との巡り会わせが悪く、3勝8敗と負け越しましたが、防御率はチーム3位と意地を見せます。移籍2年目には、7勝5敗と先発3番手、4番手投手としてローテーションを支えました。2009年はリーグ優勝も味わい、巨人との日本シリーズでは、かつてのキラーぶりも発揮します。第5戦に先発すると7回4安打無失点と相性のよさを見せました。しかし、当時の藤井はスタミナがなく完投することはほぼありません。同試合もリリーフが打たれて勝利投手にはなれませんでした。
2年で10勝と存在感を示していましたが、2007年オフに戦力外通告を受けており、巨人へ移籍します(形式上はFA移籍)。すると巨人でも、4番手の先発投手としてローテーションに加わりました。ヤクルト戦で勝利投手となり史上8人目の12球団勝利を達成するなど、チーム3位の7勝をマークして優勝に貢献します。2011年は、一転して先発投手に空きがなく、ファームで好調を維持しましたが、結局終盤の1試合のみの登板で終わりました。
人的補償で横浜へ移籍し、久しぶりの完封、完投勝利を味わう
2012年、巨人は横浜DeNAベイスターズからFA宣言した村田修一を獲得し、藤井秀悟はその人的補償という形で自身3度目の移籍を経験します。5月に一軍昇格すると、一時は6連勝を記録するなど、先発として存在感を見せました。2013年には、史上最大ブランクとなる11年ぶり2度目の開幕投手を任され、6回2失点と試合を作ります。
同年5月には、実に3986日ぶりの完投勝利を挙げて、自らが持っていた先発試合連続完投なしのワースト記録を107試合でストップさせます。さらに7月には、4104日ぶりの完封勝利など、6勝5敗、防御率3.54と比較的安定した成績を残しました。
現役時代のほとんどを先発投手として過ごし、通算83勝で引退
しかし、確たる地位を築いていないがために、新たなローテーション投手が出てくると藤井秀悟の出番は一気になくなります。2014年は同じくベテランの久保康友、高橋尚成らがチームに加わり、同年の一軍出場はゼロに終わりました。そして10月には戦力外通告を受け、トライアウトを受験しましたが、プロ野球からの声はかからず現役引退を決意します。
4球団を渡り歩き、通算83勝の成績を残してユニフォームを脱ぎましたが、全284試合登板ののうち、8割を超える240試合は先発登板でした。引退後は、古巣巨人に声をかけられ、現在は打撃投手としてチームを裏から支えています。そして、現役時代から心臓疾患を患っていたことも、引退後に発表しました。