名前 | 宮本慎也(ミヤモトシンヤ) |
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生年月日 | 1970年11月5日 |
国 | 日本 |
出身 | 大阪府吹田市 |
プロフィール | 1987年PL学園三塁手控えで夏の甲子園に出場し優勝。同志社大を経て、プリンスホテルに就職し、1994年には全日本入りを果たす。
1995年ドラフト2位でヤクルトに入団。3年目の1997年から遊撃手レギュラーに定着。2000年は自身初の打率3割を達成。2001年シーズン67犠打の日本新記録を達成しチームの日本一に貢献。同年から4年連続リーグ犠打王。 2004年アテネ五輪、2008年北京五輪では日本代表キャプテンとして活躍。2008年途中から三塁手に転向すると、2009年から4年連続ゴールデングラブ賞受賞。2011年には史上最年長でベストナイン受賞。2012年、通算2000本安打達成。2013年、現役引退表明。2014年日本野球機構の調査委員へ就任。 通算成績は2,162試合、7,557打数2,133安打、62本塁打、578打点、111盗塁、打率.282。ベストナイン1回、ゴールデングラブ賞10回。PL学園卒、同志社大学卒、右投右打、176センチ、70キロ |
PL学園、同志社大学、プリンスホテルとエリートコースを歩む
宮本慎也は、大阪に生まれましたが、長嶋茂雄ファンだった父親の影響で巨人ファンでした。小学3年生から藤白台少年野球部で野球を始め、卒業文集では巨人4番を打つと書いています。中学時代、摂津リトルシニアに入ると投手から内野手へ転向し、全国大会に進出しました。するとそのプレーがPL学園関係者の目に留まり、同校へ進学します。
1学年上には、立浪和義、片岡篤史ら強力メンバーが揃っていました。宮本は、選手時代遊撃手だった中村順司監督に教えを請い、立浪のような鉄壁の守備を目指します。すると2年生で唯一ベンチ入りメンバーに抜擢されて、1987年夏の甲子園にも三塁手控えとして出場し優勝に貢献しました。
卒業後は同志社大学へ進み、1990年春季には首位打者を獲得するなど打力をアップさせます。4年間でも打率3割を超えてプロスカウトも指名挨拶にきていましたが、野口真一監督の勧めで、プリンスホテルに進んで社会人経験を積みました。とはいえアマ野球界のエリート街道を歩み、念願のプロ野球入りするチャンスが目の前にやってきました。
守備力を買われて、池山隆寛に代わる遊撃手レギュラーに抜擢
1994年当時は、まだ逆指名制度がありました。宮本慎也はヤクルトスワローズを逆指名して、ドラフト2位で入団が決まります。当時は野村克也監督がチームを率いていましたが、打撃に目をつぶってくれるなら守備で抜群の選手がいると、スカウトからの報告を受けていました。同年は3位で稲葉篤紀も指名していますが、4名で指名を終えており狭き門でもありました。
1995年プロ生活がスタートすると、さっそく守備力を披露し1年目から67試合に出場します。同年の日本シリーズでも全試合に起用されるほど信頼されていました。2年目からは正遊撃手・池山隆寛を三塁手にコンバートさせてでも、宮本を遊撃手で固定します。すると3年目の1997年には早くもゴールデングラブ賞を受賞しました。しかし打力はスカウトの報告どおり、全く戦力になりません。そのため、野村監督は脇役に徹することを繰り返し指導し、練習でも右打ちやバントなどチームバッティングに多くの時間をかけました。
初の打率3割達成、世界タイの67犠打など打撃でも頭角を現す
完全に遊撃手レギュラーを掴むと、1999年から5年連続ゴールデングラブ賞と鉄壁の守備を披露します。当初は8番打者に固定されていましたが、中西太臨時コーチの指導、さらには野村ID野球の特徴でもある配球を読んでのバッティングに徹すると、打者としても覚醒していきました。
2000年は、136試合にフル出場して、初の打率3割を達成します。2001年は、2番打者に固定されると67犠打という世界タイ記録を樹立して、リーグ優勝、日本一を達成しました。以後も、4年連続でリーグ犠打トップとなるなど、ヤクルト打線に欠かせないピースとなりました。
強烈なキャプテンシーで、2大会連続で五輪日本代表主将に任命
プロ野球選手として中堅どころとなると、強力なキャプテンシーを発揮します。2004年、アテネ五輪では日本代表に選出されて、予選からキャプテンに指名されました。プレーでも、全9試合に出場し、チームトップの打率.500、18安打と牽引します。途中、長嶋茂雄監督の離脱がありながら、日本の銅メダル獲得に貢献しました。
2005年オフには、チームメイト古田敦也から日本プロ野球選手会長を引き継ぎます。2008年の北京五輪においては、遊撃手ポジションは主に中島裕之や川崎宗則が務めましたが、チームを統率するキャプテンとして参戦しました(結果はメダルなし)。
ベテランとなっても攻守で存在感を発揮し、通算2000本安打達成
35歳で迎えた2006年シーズンは、2度の故障もあってレギュラー奪取以降初めて出場試合数が100試合を割ります。しかし、チームはまだまだベテランの力を必要としており、宮本慎也も若い頃とは立場を変えて貢献していきました。スピードに衰えが目立ち始めると、打順を6番に下げて、ランナーを返す役割を演じます。また2008年からは守備の負担を軽減させるため三塁手へ転向し、同年オフには将来の監督候補としてコーチ兼任となりました。
しかし老け込む要素は全くなく、最年長記録をいくつも樹立していきます。2009年から、三塁手として4年連続でゴールデングラブ賞を受賞し、その回数は遊撃手部門の6回とあわせてついに10回となりました(史上最年長記録)。2011年は開幕から打撃絶好調で、4月の月間MVPを受賞しましたが、40歳5ヶ月での初受賞はリーグ最年長記録です。同年はそのまま打率3割も達成し、自身初めてのベストナインもリーグ最年長記録でした。
2012年も110試合に出場し、5月にはついに通算2000本安打を達成します。入団時は全く打撃で期待されていなかった宮本でしたが、大学、社会人を経由しての大記録達成は古田敦也に次いで史上2人目でした(後に和田一浩も達成)。脇役に徹していたこともあって、2000本安打を達成した時点での通算本塁打数は最小でしたが、ただ一人400犠打を成功させています。
現在は野球人気底上げに尽力しつつ、将来の監督着任を待つ
2013年、夏場以降は代打での出場がメインとなり、同年限りでの引退を表明しました。その後は、野球評論家や解説者として過ごしています。2014年には日本野球機構の調査委員へ就任、2016年には学生野球資格回復研修を受講したことで、学生に対する指導ができる体制を整えました。そして、若年層の野球離れに危機感を持ち、ジュニアよりも幼い園児向け野球教室を開催するなど、野球人気の底上げに尽力しています。近い将来、プロ野球球団の監督候補としても大いに期待されています。