市川大祐について

名前 市川大祐
生年月日 1980年5月14日
日本
出身 静岡県清水市
プロフィール 高部小1年からサッカーを始める。3年で清水FC、エスパルスジュニアユースを経て、エスパルスユースに所属。この間1992年全日本少年大会優勝、95年日本クラブジュニアユース選手権優勝。96年U‐16日本代表。97年Jリーグ・ユースカップ優勝。

98年Jリーグ開幕戦でJリーグ・デビュー。同年4月対韓国戦で日本代表入り。17歳322日でのAマッチ代表は史上最年少記録。98年W杯フランス大会代表候補としてスイス合宿に参加するが、本大会代表メンバーには選ばれなかった。同年9月清水エスパルスとプロ契約。99年U‐22代表。181センチ、68キロ

天賦の才能を見せた少年時代

市川大祐が生まれたのは静岡県清水市。日本で最もサッカー熱が高い地域でした。小学1年生になると自然と市川もサッカーを始めることになりますが、すぐさま天性の素質を見せます。そして3年生にして地元にあるJリーグクラブ、清水エスパルスのジュニアユースに所属。小学6年生になった92年には全日本少年大会優勝を飾っています。

中学に進学すると市川はジュニアユースからエスパルスのユースに所属するようになります。中学3年生になった95年には日本クラブジュニアユース優勝。東西対抗戦にも出場して最優秀選手賞も獲得しました。そして翌96年にはU-16の日本代表入り。その高い実力はJリーグ関係者からも注目を集めるようになりました。

ちなみにユース時代の97年、市川は背番号24をつけて清水エスパルスの選手として天皇杯に出場経験もあります。当時17歳の青年が出場するというだけでも清水エスパルスがいかに市川に期待していたかがわかります。

17歳332日目にして代表デビュー

高校3年生に進級を控えていた市川大祐ですが、この時点で市川は高校サッカーで学ぶことは何もなかったと言えるでしょう。高い実力、スキルから前年には清水エスパルスの選手としてプレーしましたが、公式でJリーグデビューを果たしたのはこの年の3月21日。日本平スタジアムで行われたコンサドーレ札幌戦が市川のJリーグデビュー戦となりました。

そして国際試合でも市川の存在は際立っており、岡田武史監督が指揮する日本代表にも市川は招集されます。98年の4月1日に行われた韓国との親善試合で市川は出場。この時の市川は17歳332日。いまだに日本代表選手としては史上最年少での出場記録となっています。

ちなみにこの年はワールドカップイヤー。この時点で日本代表入りを果たした市川なら、史上最年少でワールドカップのピッチに立つことを期待されました。しかし、市川は三浦知良、北澤豪らとともに無念の落選。フランスまで帯同こそしましたが、サポートメンバーとしての起用に終わりました。

日本に帰国した後、市川は清水の主力選手として活躍。リーグ戦では20試合に出場し、11月14日のジェフユナイテッド市原戦で初ゴールを決めました。さらに翌99年には背番号を25に変更し、22試合に出場。清水のセカンドステージ優勝、アジアカップウィナーズカップ1999-2000に貢献しました。

故障に悩まされるも、日韓W杯に出場

フランスワールドカップ終了後、日本代表の監督はフィリップ・トルシエに替わりました。そのトルシエが就任当初から大きな期待を寄せていたと言われているのがこの市川大祐。フランスワールドカップは不運にも出場できませんでしたが、2000年に行われるシドニーオリンピック、そして02年の日韓ワールドカップは出場間違いなしと思われ、市川のサッカー人生がより華やかになることは間違いなしとされていました。

しかし、早くからJリーグで出場していたことの代償か、市川は99年から代表選手として招集されなくなりました。その原因となったのはオーバートレーニング症候群。慢性的な疲労感に身体が侵されるもので、競技成績の低下や全身の倦怠感、睡眠障害らが症状として挙がりますが、市川はこの症候群のために成績が下降。シドニーオリンピックの代表入りを逃しました。

しかし、清水でのシーズン成績は落とすことがなく、レギュラー選手としてクラブに貢献。当時の清水エスパルスには市川のほかに三都主アレサンドロがいたため、市川と三都主の強力なサイド攻撃が清水の武器となっていました。

そして迎えた02年、ようやくオーバートレーニング症候群から解放された市川はすぐに代表復帰。日韓ワールドカップには間に合いました。この大会中、市川はチュニジア戦で中田英寿の得点をアシストする活躍を見せたほか、代表に少なかった右サイドプレーヤーとしてチームに貢献。結果的に日本代表史上初となる決勝トーナメント進出に大きく貢献しました。

清水退団後は流浪のサッカー選手に

日韓ワールドカップ終了後、市川大祐は所属する清水エスパルスでレギュラーとして起用され、03年には結婚するなど順風満帆の成績を収めていました。しかし、この頃から市川は故障がちになり、ジーコが監督に就任した後の日本代表には呼ばれることがありませんでした。

市川の故障癖は年々深刻なものになり、09年にはとうとうレギュラーを奪われるという事態に。実力でその座を取り返した市川ですが、10年には契約延長がなく、清水を退団。ユース時代から含めれば人生の大半を所属したチームから離れることになり、ファンの悲しみを誘いました。

その後の市川は清水時代では考えられないほどの流浪の生活を送るようになります。11年にはヴァンフォーレ甲府へ移籍しましたが、この年のシーズンオフには戦力外通告を受けることに。翌12年は水戸ホーリーホックへ働き場所を求めて移籍しますが、ここでも市川は戦力外通告を受けてクラブを追われます。さらにこの年のオフはJリーグのクラブからのオファーがなく、13年シーズンは当時JFLに所属していた藤枝MYFCへ移籍してプレーしました。

その後の市川は15年にFC今治へ移籍、16年にはヴァンラーレ八戸へとクラブを転々とします。そうしてこの年のオフ、市川は現役引退を発表。36歳にして現役生活に別れを告げました。

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