遠藤一彦について

名前 遠藤一彦
生年月日 1955年4月19日
日本
出身 福島県西白河郡
プロフィール 学法石川高から東海大に進んで投手として鳴らし、78年ドラフト3位で大洋入り。翌年12勝12敗8Sの好記録で新人王候補となる。184センチの長身から投げ下ろす速球と切れのいいフォークボールで真っ向から押す本格派。大成を期待されながら足踏みを続けていたが、83年見事に開花。夏以降に12連勝し、最多勝と沢村賞を獲得。84年2年連続最多勝。86年8月31日、93人目の通算100勝を達成。87年10月対巨人戦で右アキレスけん断裂の大けがをするが、90年6勝21セーブを挙げてカムバック賞を受賞。92年引退。通算460試合、134勝128敗58セーブ、防御率3.49。最多勝2回、沢村賞1回、最多奪三振3回。97年横浜コーチとなる。

甲子園不出場の無念を大学で晴らす!

大洋ホエールズのエースとして君臨した遠藤一彦、生まれたのは福島県の西白河郡でした。決して野球どころというわけではなかったですが、遠藤は早くから東北地方では注目される選手のひとりでした。福島県の名門校である学法石川高校に進学した遠藤は2年生時にセンターのレギュラー、控え投手としてのポジションを確立しました。

チームを東北大会決勝まで導きましたが、決勝の東北高校戦で敗れてしまいます。文字通りのエースとなった3年生時の遠藤はチームを4番打者としてもけん引しますが、またも県予選の決勝で双葉高校に惜敗を喫します。甲子園大会には縁のないまま、遠藤の高校野球は幕を閉じました。

高校卒業後、遠藤は東海大学へと進学、首都大学リーグでは屈指の強豪校でしたが、遠藤はこの中でもエース投手に台頭します。遠藤の東海大学時代の最初の快挙は76年の全日本大学野球選手権大会でした。この大会中、遠藤はチームメイトの吉田恭之との二本柱を形成し、決勝戦で後にチームメイトになる斉藤明雄擁する大商大学を相手に2-1で下して優勝を果たします。

そして東海大学相模のスター選手だった原辰徳が東海大学に入学した77年、全日本大学野球選手権大会連覇のために遠藤はエースとして奮闘しますが、この年は決勝戦で駒澤大学相手に延長10回までの熱戦を演じますが、惜しくも敗れて準優勝。大学ラストイヤーを飾ることはできませんでした。

しかし、遠藤の投球はプロのスカウトたちからも注目を集めるもので、ドラフト候補生としては申し分ないものでした。この77年のドラフト会議で遠藤は大洋ホエールズから3位指名を受けます。

ところが、当初の遠藤は入団拒否の姿勢を貫きました。というのも、遠藤の将来の夢は設計士でした。大学では建築学を学び、さらに社会人野球への内定ももらっていたこともあり、プロ入りを拒否し続けました。それでも遠藤を欲した大洋はスカウトが遠藤の地元である福島まで向かい、帰りの電車の中でも必死に交渉した結果、遠藤も了承しました。ここにのちの大洋のエースが誕生しました。

フォークを覚えて、2年目に12勝を挙げて台頭

期待の即戦力投手として入団した遠藤一彦ですが、ルーキーイヤーの78年はシーズンも佳境に迫った8月になってようやくプロ初登板となるほどに遅れました。決して故障や不調が原因ではなく、当時の監督である別当薫の方針によって、1年目は体力づくりを兼ねて二軍で調整することに時間を割かれた形になりました。そのため遠藤の1年目の成績は11試合に登板して1勝1敗、防御率4.50という静かな船出でした。

背番号24へと変更した79年、遠藤は頭角を現します。この年は開幕から先発ローテーション入りを果たし、6月には完封勝ちを記録するほど。さらに後半戦になるとリリーフが弱いチーム事情に合わせる形でクローザーへとコンバートされました。その結果、47試合に登板(先発24試合)して、12勝12敗8セーブという活躍を見せます。

新人王資格を有する状態でこれだけの活躍を収めたのなら、新人王は当確かともささやかれましたが、結果はリーグ最高勝率を挙げた中日の藤沢公也が選出され、遠藤はここでも涙を飲むことになりました。

遠藤の活躍を支えたのがこの年に覚えたというフォークでした。長身から投げ下ろすフォークは見た目以上の角度があり、打者がてこずる魔球でした。この球を持っているがゆえに後半はリリーフとして起用されたのですが、それが遠藤の便利屋感を高めてしまうことになります。

80年、遠藤はクローザーとして起用されますが、チーム事情もありセーブ機会での登板も少なく、54試合に登板したにもかかわらずセーブ数はわずか16でした。これだけの持ち球を持つ選手をベンチに置いておくのは惜しいという判断からか、翌81に遠藤は先発へ再転向されました。そしてこれが遠藤を大洋のエースにするキッカケとなりました。

2年連続の最多勝でセリーグの主力投手に!

81年、先発に復帰した遠藤一彦はこの年8勝にとどまりますが、本格化を見せたのは82年からでした。リーグ最多敗となる17敗を喫しましたが、3年ぶりに2桁勝利を挙げました。そして念願の初タイトルを獲得したのは83年のことでした。

この年の遠藤は18勝9敗3セーブ、防御率2.87という素晴らしい成績を残して自身初タイトルとなる最多勝、ベストナインを獲得します。さらに当時はタイトルになっていなかった奪三振も187を記録してリーグ1位に輝きます。この年にリーグ優勝を果たした巨人には江川卓、西本聖らがいましたが、この二人を差し置いて沢村賞を獲得しました。

翌84年も最多勝に輝き、遠藤は大洋のエースどころか、セリーグ屈指の実力は投手になりますが、当時の大洋は遠藤一人が奮闘しても優勝できるチームではなく、全くと言っていいほど上位に浮上しませんでした。そのため、84年の遠藤の成績は17勝17敗というもの。勝率5割での最多勝獲得は後にも先にもこの年の遠藤のみとなりました。

毎年のように二桁勝利を挙げた遠藤は87年にも14勝を挙げて6年連続の二桁勝利を記録します。しかし、この年のシーズン終盤、遠藤はアキレス腱断裂という大ケガを負います。投手としては珍しい足の故障ですが、幸か不幸かシーズン終盤の故障だけに、翌88年に復帰しますが、5勝12敗ととうとう二桁勝利が途切れます。89年もこの不調を引きずり、2勝8敗、防御率は6.17とかつてのエースの面影はありませんでした。

クローザーとして復活。大洋のエースとして有終の美を飾る

89年で34歳になった遠藤一彦。それだけに89年シーズンの不振からは引退もちらつきましたが、遠藤は90年に短いイニングで勝負できるクローザーへと復帰することで蘇ります。

10年ぶりにクローザーへと復帰したこの年、遠藤は6勝6敗21セーブという成績を挙げてカムバック賞を受賞します。防御率も2.17と前年から4点も減らす好成績を残しました。

しかし、これが遠藤最後の輝きになりました。翌91年は2勝2敗7セーブにとどまり、92年に現役引退を決意します。遠藤最後の登板が次の93年から横浜ベイスターズに替わる大洋ホエールズとしても最後の試合となりました。

遠藤の雄姿を一目見たいとばかりに横浜スタジアムには超満員のファンが押しかけます。そして、それまでチームを支え続けたエースらしく、この日は先発として登板。2回を無失点に抑えて有終の美を飾りました。

ちなみに遠藤の最終登板をリリーフしたのはこの年のルーキーだった三浦大輔。大洋ホエールズのエースが未来の横浜ベイスターズのエースへとバトンをつないだ試合として、ファンには語り草になっています。


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