名前三宅義信(ミヤケヨシノブ)
生年月日1939年11月24日
日本
出身宮城県柴田郡村田町
プロフィール宮城県立大河原高(現・大河原商)2年の時からウェイトリフティングを始め、法大を経て、自衛隊体育学校で練習。

1960年のローマ五輪のバンタム級で銀メダルを獲得したのを皮切りに、1964年の東京五輪と1968年のメキシコ五輪で、フェザー級の金メダルに輝く。1972年のミュンヘン五輪(4位)の後、引退。ロス五輪では監督を務めた。

1989年日本体協のスポーツ指導者在外研修で米国留学。自衛隊体育学校副校長を経て、1993年校長。1997年4月定年退官。1979年〜2001年日本ウェイトリフティング協会理事、副会長も務めた。1998年6月トライアスロン連合副会長に就任。

著書に「バーベル人生」がある。第1級防衛功労章;紫綬褒章、法政大学文学部日本文学科卒

ウェイトリフティングと出会い、すぐに日本の第一人者となる

三宅義信は、1939年に宮城県柴田郡で9人兄弟の6番目として生を受けます(弟・義行は7番目)。当時は柔道に力を入れており、練習の一環として重量挙げをやっていました。しかし、無差別級しかないため体重差で遅れを取ることが多くありました。そして大河原商業高2年時に、メルボリン五輪を見て、ウェイトリフティングという競技の存在を知ります。すると、競技を変更し自宅での猛練習を開始しました。すると、わずか半年で全国大会入賞を果たすなど一気に頭角を現します。

法政大学へ進学した頃には、すでに日本でもトップに上り詰めており、1960年のローマ五輪に出場します。第一人者として金メダルが期待されましたが、初めての海外経験、また日程が終盤と間隔が空きすぎたこともあって銀メダル(フェザー級)に終わりました。

東京五輪では世界記録を樹立して、期待通りの金メダル第1号

その後、陸上自衛隊へ進んで、さらに選手として多くの経験をつみ世界記録も保持します。当時は、有能な指導者も不在で、何から何まで自分で考えて記録更新にチャレンジしました。次期五輪は自国開催の東京となっていただけに、相当前から金メダル候補として大きく期待されます。しかも、前回と異なり、競技日程を開催2日目に設定するという自国開催ならではの策も講じました。

三宅義信の金メダルで日本選手団に勢いを付けたいという思いは、24歳にとって相当なプレッシャーとなります。しかし、ローマ五輪からの4年間、苦しみを味わいながらも耐えて練習してきた成果を完全に出し切りました。フェザー級9回の試技をすべて成功させ、プレス、スナッチ、ジャークの計397.5キロで世界記録を樹立して金メダルを獲得します。バンタム級の一ノ関史郎、ミドル級の大内仁の銅メダル、さらには4名もの入賞とウェイトリフティング日本代表が全員結果を残します。そして勢いづいた日本は、合計16個の金メダルを獲得しました。

4大会連続で五輪出場し、史上初の兄弟で表彰台も達成

2大会連続で五輪メダルを獲得すると、選手として競技を続けながら、同じくウェイトリフティングをしていた6歳下の弟・義行の指導者としても活躍します。同じフェザー級としてトライする中、自身は世界選手権5連覇を含めて、メキシコ五輪まで負けなしと貫禄を見せ付けました。

そして兄弟揃ってフェザー級日本代表に選出され、1968年のメキシコ五輪に挑みましたが直前の合宿で体調を壊し、なおかつ肩を痛めるという逆境に追い込まれました。ところが弟が本戦でいきなり122.5キロの五輪タイ記録をマークすると、その活躍に引っ張られて同じく122.5キロを持ち上げます。前回大会のような金メダルが使命でなかったことから、心に余裕が生まれ、そこから圧勝での連覇を達成しました。そして弟も3位に入り史上初の兄弟表彰台を達成しました。五輪連覇の功績は称えられ、内閣総理大臣顕彰も受賞しています。

その後も、選手兼任で指導を続けると、弟が見る見るうちに実力をつけ、ミュンヘン五輪金メダル候補となります。プレ五輪でも優勝を飾り、万全の状態でしたが、直前に怪我を負い出場すらできなくなりました。すると弟の雪辱を胸に自身が五輪3連覇を狙うことに路線変更します。しかし、ライバルも増え減量にも失敗したことから、初めてメダル獲得無しの4位に終わりました。

指導者生活に専念後も、ウェイトリフティングに積極的に関わる

ミュンヘン五輪を最後に、選手生活を引退し、指導者のみに専念しました。幹部自衛官として勤務する傍ら、多くのウェイトリフティング選手を育成します。モントリオール五輪(1976年)、ロス五輪(1984年)では全日本チーム監督も務め、両大会でのメダル、さらには多くの入賞者の誕生をアシストしました。

自衛隊体育学校副校長、校長を経て退官後も、ウェイトリフティング中心にスポーツ界に関わります。日本トライアスロン連合副会長、日本オリンピアンズ協会常務理事、東京都ウェイトリフティング協会副会長などを歴任し、2013年には東京国際大学ウェイトリフティング部監督に就任しました。

まさにウェイトリフティング一家として、メダリストが揃う

三宅義信は、自らウェイトリフティング競技をスタートし、4大会連続五輪出場したまさに第一人者ですが、そのファミリーもまさに競技一家です、弟と一緒にメキシコ五輪では表彰台に上ったことは前述のとおりですが、姪・三宅宏実もロンドン五輪で銀メダル、リオデジャネイロ五輪でも銅メダルとメダリストになっています。甥・三宅敏博も全日本女子ヘッドコーチを務めるなど三宅ファミリーは末恐ろしい血筋です。

2度目の東京五輪開催決定に、レジェンドがまさかの現役復帰

2020年の東京五輪が決定した2014年、三宅義信は突如として現役復帰を果たします。マスターズ大会に飛び入りで参加して、70~74歳の部の62kg級でまさかの日本記録を樹立しました。2015年にはフィンランドで行われた世界マスターズ選手権でも銀メダルと、慢心相違の身体に鞭打ってレジェンドぶりを発揮しています。来る2020年五輪を盛り上げるために勇気を振り絞り、孫の声援を受けながらさらなる記録に向けて挑戦しています。


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