名前真鍋政義(マナベマサヨシ)
生年月日1963年8月21日
日本
出身兵庫県姫路市
プロフィール姫路市立白鷺中時代にバレーボールを始める。大商大附属高に進みセッターに転向、1年生からレギュラーに。インターハイ優勝も経験。

その後、大商大を経て、新日鉄に入社。1988年ソウル五輪代表となり、全日本のセッターをつとめる。1991年新日鉄主将。1993年監督に就任、1996年、1997年Vリーグ優勝に導く。のち選手に復帰し、1997年、1998年ベスト6に選ばれる。

1999年監督を辞任。同年9月イタリアのセリエA1パレルモを経て、2000年7月旭化成に移籍。2002年松下電器に移籍。2004年再び旭化成に移籍し、2005年現役引退。

同年、女子バレー久光製薬スプリングス監督に就任。黒鷲旗初優勝、2006年シーズンではプレミアリーグ5シーズンぶりの優勝、2007年は、プレミアリーグ、日韓V.LEAGUE TOP MATCH大会、黒鷲旗の3冠を達成。

2009年から全日本女子監督に就任。IDバレーを掲げ、2010年には32年ぶりの銅メダル獲得。2012年、ロンドン五輪で28年ぶりの銅メダル獲得。2016年リオ五輪は5位に終わり、全日本女子監督を退任。同年11月からはヴィクトリーナ姫路のGMに就任。大阪商業大学卒、188センチ、87キロ

高校、大学、社会人と輝かしい実績を積み、ソウル五輪出場

真鍋政義は、兵庫県姫路市に生まれ、子どもの頃から長嶋茂雄に憧れる野球少年でした。白鷺中学校に入学して野球部に入ろうとすると、バレー顧問に勧められたことがきっかけで、バレーボール部に入部します。するとすぐさまバレーの才能を開花させて、エースアタッカーとして活躍しました。大阪商大附属高に進学すると、セッターに転向して1年生からレギュラーを奪います。チームは強豪で、高校時代はインターハイ優勝も経験しました。

大阪商大進学後は破竹の勢いが続き、在学の4年間すべてで西日本インカレ、関西リーグを制するという完全優勝を成し遂げます。1985年には大学生にして全日本代表に初選出されて、同年のW杯にも出場しました。そして卒業後は、バレーの強豪・新日鐵へ入社します。即レギュラーとして試合に出場し、新人王、さらには1988年度からの3連覇に貢献しました。当時は日本代表も常連となっており、1988年ソウル五輪にも出場します。しかし、かつてメダルは当たり前だった日本としては、かつてないほどの惨敗の10位に終わりました。

36歳でイタリア・セリエAに挑戦し、42歳まで現役としてプレー

1991年からは新日鐵の主将に就任し、1993年からは選手兼任監督に抜擢されます。1990年以来優勝から遠ざかっていましたが、1994年から2年連続準優勝、そして1996年からはVプレミアリーグで見事な連覇を達成しました。そして、36歳という年齢でイタリア・セリエAのパレルモからオファーを受けます。真鍋政義は、新日鐵の終身雇用を蹴ってまで、プロ契約して移籍しました。

海外挑戦はわずか1年でしたが、濃い時間を過ごし、2000年からは旭化成スパーキッズとプロ契約して帰国します。その後も松下電器パナソニックパンサーズ(2002年から2003年)、再び旭化成とプロ契約選手として42歳まで現役選手としてプレーしました。Vリーグでベスト6を12回受賞し、監督としても優勝2回、また黒鷲旗でも最優秀選手1回、ベスト6を6回と数々の実績を残して現役を引退しました。

引退後、女子バレー久光製薬監督に就任し、即結果を見せる

現役引退した2005年から、女子バレー久光製薬スプリングス監督に就任します。いきなりレギュラーシーズンで2位を確保し、ファイナルラウンドに進出しましたがパイオニアに破れ2位に終わりました。しかし就任2年目の2006年、早くもチームの特徴を掴むと、日韓V.LEAGUE TOP MATCH大会で優勝し、同年5月には、第55回黒鷲旗全日本バレーボール選手権大会初優勝と実績を積み上げます。その勢いで2006-2007年のプレミアリーグでは、レギュラーシーズン、ファイナルラウンドをともに制する完全優勝を成し遂げました。自信を備えたチームは、その後も日韓V.LEAGUE TOP MATCH大会、黒鷲旗を2連覇で飾り、シーズン3冠を達成します。そして2009年、全日本代表監督就任に伴い、久光製薬監督を退任しました。

全日本女子バレー監督に就任しIDバレーで世界選手権銅メダル

かつて日本のお家芸だった女子バレーでしたが、ソウル五輪(1988年)で初めてメダル獲得無しに終わり、シドニー五輪(2000年)では最終予選で破れて、出場することすら許されませんでした。その後、柳本晶一が全日本女子を建て直し、アテネ五輪(2004年)から2大会連続の5位まで復活させます。そして高校、新日鐵時代の後輩・真鍋政義にバトンが渡されました。

先輩が残してくれた資産を活用しつつも、真鍋監督はかつての根性バレーからの脱却を図ります。すでにバレーはデータ活用全盛時代に突入しており、自身も試合中iPad片手に即座に分析された情報をチーム作戦に生かしました。そうしたIDバレーで挑んだ2010年の世界選手権では、実に32年ぶりのメダル獲得となる3位に滑り込みます。まさに2年後に迫るロンドン五輪に弾みをつけました。

ロンドン五輪では、復活を告げる28年ぶりの銅メダル

一気に世界と戦えるチームに変貌を遂げると、2011年アジア選手権準優勝、W杯4位と好調を維持します。そして迎えた2012年のロンドン五輪では、28年ぶりのメダル獲得をもたらしました。対戦カードが決定する前から、打倒中国戦に絞り万全の対策を施します。そして真鍋政義の目論見どおり、準々決勝は中国戦となります。しかし弱点を洗い出しており、全員が自信を持って試合に臨みました。さらに、相手をかく乱するため12人中10人の背番号を変更し心理戦でも優位に立ちます。それまで五輪で一度も勝利したことがなかった中国に3-2で勝利し、準決勝のブラジル戦には敗れましたが、3位決定戦では韓国に圧勝して銅メダルを獲得しました。

新戦術でさらなる高みを目指すも、リオ五輪では5位に終わる

もともとの契約は、ロンドン五輪で退任でしたが、メダル獲得の功績が評価されて、全日本女子監督続行が決まります。リオ五輪での金メダル獲得を目標として、新たなチーム作りを開始しました。そしてチームのキャプテンには、木村沙織を指名します。17歳で全日本入りし、常に妹的存在でしたが移籍先のトルコまで足を運んで就任を口説き落としました。

また身長差で劣る日本は、かつて金メダルを獲得した時にいずれも秘策を駆使していました。真鍋政義は、ミドルブロッカーを一人減らす「MB1」、さらにコート上の6人が複数の役割をこなす「ハイブリッド6」などの新戦術を武器に戦います。しかし、それらは新チームにフィットせず、五輪前の大事な大会であった世界選手権で7位、W杯5位と前回よりも順位を下げてしまいました。勢いがつかずに臨んだリオ五輪は、準々決勝でアメリカに破れ5位と前回大会を上回ることができませんでした。

故郷の姫路に戻り、GMに就任して新たな取り組みを開始

2大会で五輪監督を経験し、さらに次期監督の候補にも選出されましたが辞退します。そして2016年からは、ともに五輪を戦った竹下佳江が監督を務めるヴィクトリーナ姫路のGMに就任しました。生まれ育った姫路の地において、五輪選手やスタッフを輩出することを目標にしています。さらに、バレー選手のセカンドキャリア構築のための活動も合わせて行っています。


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