名前荻原健司(オギワラケンジ)
生年月日1969年12月20日
日本
出身群馬県吾妻郡草津町
プロフィール中学3年の時、双子の弟・次晴とともにスキーの全国大会複合競技で1、2位を独占、“荻原兄弟”の名を全国にとどろかせる。長野原高時代、国体1位。1988年世界ジュニア選手権16位。1989年大学選手権で優勝、同年と3年ユニバーシアード(ソフィア,札幌)で2連勝。

W杯には大学1年から出場、1991年同サンモリッツ大会10位。1992年アルベールビル五輪個人7位、団体で金メダル。

1993年2月の世界ノルディック選手権個人1位、団体1位は日本人初の2冠。1992〜1993年W杯は6勝を挙げ、日本人初の個人総合優勝、1993〜1994年のW杯も5勝で史上初の連続個人総合優勝。

1994年全日本選手権初優勝。同年のリレハンメル五輪個人4位、団体では金メダル。同年12月全日本複合スキーで初優勝。1994〜1995年W杯6勝で総合3連覇。1995年11月左手を負傷し手術したが、8年1月のW杯第5選で優勝し復活。1997年2月世界ノルディック選手権個人1位。

1998年長野五輪個人4位、団体5位。開会式では日本選手団の主将として選手宣誓を行った。1999年世界ノルディック選手権個人3位。2001年同5位。2000〜2001年W杯個人総合15位。W杯通算19勝は世界最多記録。2002年ソルトレイク五輪個人8位、団体8位で選手生活引退。

2004年、第20回参議院議員通常選挙に比例代表区から自由民主党所属で立候補し初当選。1期6年、スポーツ振興、教育問題、環境問題などに取り組む。2010年北野建設スキー部部長就任。2014年ソチ五輪、銀メダリスト渡部暁斗を育成。

群馬県スポーツ栄誉賞、文部大臣表彰、JOCスポーツ賞、日本スポーツ賞オリンピック特別賞、朝日スポーツ賞、ビッグスポーツ賞、文部省スポーツ功労賞、JOCスポーツ賞特別栄誉賞、長野市民栄誉賞、中日体育賞、毎日スポーツ人賞国際賞、日本スポーツ賞、ワールドトロフィー賞。早稲田大学人間科学部卒。169センチ、60キロ。北野建設勤務

双子の弟・次晴とスキージャンプを始め、複合有力選手に成長

荻原健司は、双子の弟・次晴とともに群馬県吾妻郡草津町に生まれます。幼少期から二人揃って器械体操を始めましたが、何をやらせても飲み込みの早い弟に常に遅れを取っていました。小学5年生から次晴が先にスキージャンプを始めると、1年後に自身も同じ道を進みます。中学から、二人ともジャンプとクロスカントリーのノルディック複合競技を始めても、次晴のほうが優秀で、1年から全国大会に出場していました。それでも、コツコツと努力した健司は、中学3年の全国大会で1位健司、2位次晴という兄弟ワンツーフィニッシュという結果をもたらします。

そして長野原高に進学し、2年時には二人揃って初の国際大会である世界ジュニア選手権に出場しました。しかし、世界とのレベル差は顕著であり、出場選手40人中、健司36位、次晴39位という惨敗を喫します。この結果に弟はスキーへの情熱を失いかけましたが、兄・
健司は奮起して練習の虫となりました。翌年の同大会では16位と順位を上げ、全日本選手権少年の部でも優勝を飾ります。高校生ながら日本代表Bチームへの選出も果たしていました。

ライバル河野孝典とともに、アルベールビル五輪で団体金メダル

大学進学にあたって、1学年上の先輩でライバルだった河野孝典と同じ早稲田大学を選択します。そして、河野が当時世界最先端のトレーニング方法を海外から持ち帰ると、それを習い切磋琢磨して強さを増していきました。1989年には、国体優勝(1991年から1992年も連覇)、ユニバーシアードでも連覇と実力を見せ付けます。一気に日本代表にも名を連ね、現在の主流にもなっているV字ジャンプも世界に先駆けて取り入れました。

そして、V字ジャンプで大差をつけてクロスカントリーで逃げ切るという、荻原健司の必勝パターンを確立させ、アルベールビル五輪日本代表に選出されます。三ヶ田礼一、河野、荻原の3人が団体戦メンバーに選ばれ、同大会で日本唯一の金メダルを見事に獲得しました。個人総合でも、日本人最高の7位に入り、世界相手に全く物怖じしない精神力から「新人類」と称されます。しかし、この活躍は、その後の荻原が起こした快進撃の単なる序章でした。

キング・オブ・スキーとして、W杯3連覇など世界で連戦連勝

アルベールビル五輪で金メダルを獲得した1992-1993年シーズン、荻原健司は絶好調でした。ワールドカップで初優勝を含めて6勝するなど、個人総合で日本人初優勝を飾ります。1993年の世界選手権でも個人総合、団体でともに金メダルと自身の強さを見せ付けました。その後も、安定した強さを誇り、1993-1994年ワールドカップで連覇、1994年リレハンメル五輪団体金メダル、1995年世界選手権でも団体金メダルに、個人総合5位と、日本の団体戦世界大会4連覇に大きく貢献しました。

1994-1995ワールドカップで個人総合3連覇を達成し、1997年の世界選手権でも個人総合金メダルと、あまりに強さに「キング・オブ・スキー」と称されます。荻原のあまりの強さが原因で、ジャンプの得点比率が下がるというルール改正すら適用されたほどでした。1995年には、スキー界の権威・ホルメンコーレン・メダルを日本人として初めて受章しています(その後、1999年に船木和喜、2006年に葛西紀明が受章)。

長野五輪で兄弟出場を果たし、ソルトレイクで選手生活引退

1998年、地元開催の長野五輪では日本選手団の主将を務めます。遅れて頭角を現した弟・次晴とともに団体戦を戦いましたが惜しくも5位に終わり、個人戦では、ジャンプで9位と出遅れ、3位スタートした次晴を追う展開となりました。地力に勝る荻原健司は、終盤に追いつき追い越しましたが、目指していたメダルには今回も届かず4位に終わります。しかし6位でゴールインした次晴と、兄弟同時入賞を果たしました。そして、2002年、自身4度目の出場となったソルトレイクシティ五輪では、団体戦8位、個人総合8位に終わり、ついに競技生活にピリオドを打ちます。

1期6年を政治家として務め、スポーツ振興などに取り組む

現役引退後は、所属先の北野建設スキー部副部長に就任して後進の育成に力を入れ始めます。しかし、2004年に参議院議員選挙に初当選を果たし、政界へ進出しました。1期6年の間、スポーツ振興、教育問題、環境問題に取り組み、日本オリンピック委員会アスリート委員会委員、日本オリンピック委員会女性スポーツ委員会委員、日本スポーツ仲裁機構理事、財団法人全日本スキー連盟顧問などを歴任します。第1次安倍改造内閣、および福田内閣でも経済産業大臣政務官を務めました。任期満了後、スポーツの現場に戻りたいことを理由に次期参院選には出馬せず議員引退しました。

五輪メダリストを育成し、再び選手としても表彰台に登る

2010年からは、上村愛子も所属していた北野建設スキー部部長に就任します。2010年には、20年ぶりに国体に出場して、成年男子Bのノルディック複合で4位、ジャンプで13位の成績を収め、翌年には、ノルディック複合年男子Bで3位となり、実に21年ぶりに表彰台に登りました。そして2014年、北野建設所属の渡部暁斗が、ソチ五輪ノルディック複合個人ノ-マルヒルで銀メダル獲得し、20年ぶりの五輪メダリスト輩出を成し遂げます。こうしたトップ選手の育成にあたりながら、教育にも力を入れています。 


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