名前 | 山本昌邦(ヤマモトマサクニ) |
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生年月日 | 1958年4月4日 |
国 | 日本 |
出身 | 静岡県沼津市 |
プロフィール | 大学時代の1980年初の日本代表に選ばれる。1981年ヤマハ発動機(現・ジュビロ磐田)に入社。現役時代ハードマークのDFで日本代表にも選ばれる。
1987年引退後、ヤマハのコーチに就任。1992年から日本サッカー協会に出向。1997年6月マレーシアでのワールドユース日本代表監督。同年ジュビロ磐田のヘッドコーチ。1998年9月日本代表コーチ、12月日本ユース代表監督、のち監督代行を務めた。 その後もトルシエ日本代表監督補佐として活躍し、日本に貢献。1999年FIFAワールドユース世界選手権準優勝、2000年シドニー五輪ベスト8、AFCアジアカップ2000優勝、FIFAコンフェデレーションカップ2001準優勝と実績を積み上げ、2002年日韓W杯ではベスト16入りに貢献。 2004年、U-23日本代表監督としてアテネ五輪出場。本戦では予選で敗退。2004年途中からジュビロ磐田監督に就任。2006年6月退任。2016年日本サッカー協会技術委員会副委員長に就任。 国士舘大学卒。日本サッカーリーグ(JSL)93試合出場数3得点、国際Aマッチ4試合出場0得点。 |
大学生時代から日本代表に選出されるも、若くして現役引退
山本昌邦は、サッカーのお膝元・静岡県で生まれたため、何の疑いも持たずサッカーを始めます。日本大学三島高校に進学するとDFとして大きく頭角を現し、キャプテンとしてもしっかりチームをまとめました。高校時代から、大学の練習に呼ばれるようになり、その縁あってユースの合宿にも参加するようになります。そして国士舘大学進学後は、実力でユース代表に選出され、最高学年になるとA代表としてW杯アジア予選も戦いました。
1981年、ヤマハ発動機サッカー部(現在のジュビロ磐田)へ入団します。1982年には、JSL2部で優勝して1部昇格を果たし、同年の天皇杯も制しました。山本は、学生時代同様DFとしてチームを牽引し、読売クラブや日産自動車に続く3番手のクラブとしてリーグを盛り上げます。しかし、肩の脱臼癖は手術でも完治せず、1987年、29歳の若さで現役を引退しました。
日本代表チームの偵察部隊を担当し、別会場でドーハの悲劇を知る
現役引退後は、ヤマハ発動機のコーチとして指導者人生をスタートします。数年が過ぎた1992年、川淵三郎チェアマン(現協会最高顧問)の推薦もあってナショナルコーチングスタッフとして日本代表チームへ帯同しました。そして、当時日本代表監督を務めていたハンス・オフトから、対戦チームの偵察部隊としての役目を与えられます。西野朗を補佐する立場としてドーハに入り、時には機関銃を突きつけられながらもチームの情報収集に努めました。
1993年、一度消えかけた初のW杯出場の可能性が復活し、サウジアラビア、韓国と三つ巴の争いとなります。得失点差にまでもつれ込んだため、最終戦は3試合同時スタートとなりました。突然の事態に、山本昌邦は韓国vs北朝鮮の解説を任されて、日本代表の試合を見ることができません。そして、試合終了後、韓国イレブンが歓喜の輪を広げたのを目の当たりにし、その直後日本がW杯出場を逃した事実を知りました。
アトランタ五輪では、日本代表コーチとしてマイアミの奇跡に貢献
ドーハの悲劇の経験は、1996年アトランタ五輪で生かされました。ともに偵察部隊として働いていた西野朗がU-20日本代表監督を務め、自身はコーチとして帯同します。前園真聖、中田英寿、川口能活、城彰二ら黄金世代は、強国サウジアラビアを破り、28年ぶりの五輪出場を決めました。
そして本戦初戦は抽選の結果、王者ブラジルに決定、さらにグループにはナイジェリアも入るという激戦区に入ります。しかし監督、コーチは綿密な分析を行い大一番のブラジル戦を迎えました。予想通り圧倒的に攻め込まれましたが、0-0で前半を終えます。意外な展開でハーフタイムとなると、ここでドーハの悲劇の反省を生かしました。当時の日本代表は、勝利を目前にして興奮し、コーチの指示が伝わりませんでした。そこで、西野監督、山本昌邦コーチは選手たちをリフレッシュさせることに専念します。そして、後半得点を奪い、マイアミの奇跡といわれた大番狂わせを完成させます。最終的には、予選リーグ敗退しましたが、日本サッカー界の歴史に大きな一ページを刻みました。
トルシエ日本代表監督補佐し、2002年W杯でベスト16入り
山本昌邦は、1995年からU-20日本代表監督を務めて、同年のAFCユース選手権1996で4位に入り、1997 FIFAワールドユース選手権出場権を獲得します。そしてマレーシアで行われた本戦でも、前回大会に続くベスト8を実現しました。
その後、1998年10月からは日本代表コーチへ戻り、トルシエ監督の補佐に務めます。そして1999年からは、トルシエ監督がA代表とユース代表を兼任しました。すると同年のFIFAワールドユース世界選手権準優勝、2000年シドニー五輪ベスト8、AFCアジアカップ2000優勝、FIFAコンフェデレーションカップ2001準優勝と実績を次々と積み上げます。そして、2002年日韓W杯でも初のベスト16入りと、まさに日本サッカーを世界に近づけました。
谷間の世代といわれるも、U-23監督としてアテネ五輪出場を実現
ジーコジャパンとなってからもコーチとして活躍していましたが、その後はU-23日本代表監督に就任して、アテネ五輪へ集中します。当初、谷間の世代と揶揄されましたが、見事本大会出場を決めました。しかし、本戦を迎えるにあたり、山本昌邦は最終予選でキャプテンを張っていた鈴木啓太を本戦メンバーから外すという苦渋の決断をします。そして司令塔不在だったチームに、オーバーエイジ枠で小野伸二を加入させました。大久保嘉人、田中達也らのメンバーを中心に、本戦予選に挑みます。しかし、パラグアイ、イタリア、ガーナに対して1勝2敗のグループ最下位で決勝トーナメント行きは果たせませんでした。
ジュビロ磐田監督時代は、確固とした成果を残せず終わる
2004年10月、シーズン途中でしたが、古巣ジュビロ磐田の監督に就任します。当時のジュビロは、同年のゼロックス杯で優勝するなど、数年間続く黄金時代にありました。1stステージは2位でしたが、2ndステージに突如絶不調に陥り、そんな最中の監督就任でした。結局2ndステージは13位とチーム浮上には貢献できません。さらに1シーズン制に戻った2005年、大補強して臨みましたが6位に終わり、2006年シーズンも開幕ダッシュに失敗します。そしてワールドカップ中断のタイミングの6月、成績不振で監督を更迭されました。
その後しばらく現場からは遠ざかり、解説者や後進の育成に務め、国士舘大学体育学部客員教授にも就任しました。2016年4月には日本サッカー協会技術委員会副委員長に就任し、再び日本代表チームを裏方として支援しています。