室伏広治について

名前室伏広治
生年月日1974年10月8日
日本
出身静岡県沼津市
プロフィール父・重信はハンマー投げ日本記録保持者、母はルーマニアのやり投げ選手。小学校時代は走り幅跳びに熱中、中学では三種競技に専念。1990年成田高等学校に進学してからハンマー投げを始める。3年時の高校総体ハンマー投げで64m78の大会新記録をマークし優勝。1993年アジア陸上2位。 

1994年広島アジア大会で銀メダル。1995年10月72m32の自己新記録を出し、日本学生新記録を樹立。同年日本選手権初優勝。1996年日本学生対校選手権で4連覇を達成。同年73m16をマークし、日本学生新を更新。 

1997年ミズノ株式会社に入社。同年7月南部忠平記念陸上優勝。8月世界選手権では父・重信以来21年ぶりに決勝へ進出、10位。1998年4月群馬リレーカーニバルで父の記録を破り、76m65の日本新記録を樹立。同年6月全日本実業団対抗選手権、実業団学生対抗選手権で優勝。10月には日本選手権で76m67、中部事業団・東海学生対抗大会で77m35、国体で78m41をマークし次々と自らの日本記録を更新。12月バンコク・アジア大会でも78m57と日本記録を更新し金メダルを獲得、父子2代でアジアの王者となる。 

1999年織田記念陸上優勝。同年6月全日本実業団対抗選手権3連覇。 

2000年5月国際グランプリ大阪大会で日本人初の80m越えとなる80m23の日本記録をマークし、初優勝。同年7月南部忠平記念陸上で80m56の日本記録をマークし優勝。同年9月スーパー陸上で81m08の日本記録をマークし優勝。同年シドニー五輪9位。 

2001年4月梅村学園記録会で82m23の日本記録をマーク。同年6月日本選手権7連覇。7月中京大記録会で83m47の日本記録をマーク。8月世界選手権で日本投擲史上初のメダルとなる銀メダルを獲得。 

2004年アテネオリンピックで金メダル獲得、2011年世界陸上では男子最年長ながら金メダルを獲得。世界陸上とオリンピック大会での金メダル獲得は日本人として史上初。2012年ロンドンオリンピックでは銅メダルを獲得。2014年の日本陸上競技選手権では前人未到の20連覇達成。2016年に現役を引退。

現在は東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会のスポーツディレクター、東京医科歯科大学スポーツサイエンスセンター長などの肩書きを持つ。
成田高校、中京大学、中京大学院。187センチ、92キロ。

高校から始めたハンマー投げで新記録樹立

後にアテネオリンピックで金メダリストとなる室伏広治ですが、幼少期は意外にもハンマー投げをしていませんでした。室伏の家は、父は「アジアの鉄人」と称された室伏重信、母はオリンピックにも出場したやり投げ選手というアスリート一族でした。まさにアスリート同士のサラブレッドとも言える室伏ですが、子供の頃に最初に始めたのは走り幅跳び、そして中学時代には三種競技に専念するなど、代名詞とも言えるハンマー投げと出会うのはまだこの先の話です。

室伏が正式にハンマー投げをはじめたのは90年、国内留学で成田高校に進学した時でした。持ち前のパワーを発揮できるハンマー投げは室伏のスタイルに合い、父同様のキャリアを築いていくことになります。

91年、高校2年生になった室伏は高校総体ハンマー投げで64m78の大会新記録をマークし優勝。父同様のハンマー投げのスター選手として大いに注目されました。翌92年もインターハイを制し、室伏の名は高校陸上界に大きく轟くことになります。

高校卒業後、室伏は中京大学に進学すると、父や溝口和洋のコーチングを受けてメキメキと上達していきます。入学間もない93年に出場したアジア陸上では2位に入り、コーチングによって実力が伸びていることを実感しました。

さらに大学時代は94年に広島アジア大会で銀メダルを獲得すると、95年は72m32の自己新記録を出し、日本学生新記録を樹立して日本選手権初優勝を果たします。96年には日本学生対校選手権で優勝し、これまでの通算キャリアと合わせて4連覇を達成しました。この大会で室伏は73m16をマークして日本学生新記録を更新したのでした。

アジア大会で親子二代の王者に

大学生として圧倒的な成績を残していた室伏広治は97年に大学を卒業すると、スポーツメーカーのミズノへ入社します。この年にアテネで行われた世界陸上では父以来となる21年ぶりに決勝へ進出して10位に入りました。98年の群馬リレーカーニバルで父の記録を破り、76m65の日本新記録を樹立。6月に行われた全日本実業団対抗選手権、実業団学生対抗選手権で優勝を果たし、アジア陸上でも2位に入ります。

さらにこの年の室伏は記録ラッシュとなり、日本選手権で76m67、中部事業団・東海学生対抗大会で77m35、国体で78m41、バンコク・アジア大会でも78m57と次々に日本記録を更新していきました。さらにアジア大会では金メダルを獲得し父子二代でアジアの王者となりました。

こうなるとオリンピックでのメダル獲得が期待されますが、00年のシドニーオリンピックに室伏は初めて出場します。この年の5月には国際グランプリ大阪大会で日本人初の80m越えとなる80m23の日本記録をマークして優勝したほか、他の大会でも80m声を連発して絶好調で迎えましたが、肝心のシドニーオリンピックは9位に終わります。まだまだ世界の壁が厚いことを感じさせました。

それでも、室伏がハンマー投げの実力者なのは間違いなく、実際に01年には世界選手権で日本投擲史上初のメダルとなる銀メダルを獲得し、その実力は世界屈指のレベルに成長していきました。

父をも超える、アテネ五輪の金メダル

世界屈指のハンマー投げ選手に成長した室伏広治の次なる目標は、オリンピックの金メダルでした。日本人初の80mの壁を破った室伏にとって、国内大会を優勝するのは当然となり、日本選手権では毎年のように優勝していきます。

そうして迎えた04年アテネオリンピックイヤーとなったこの年、室伏の調子は絶好調でした。全日本選手権では父に並ぶ10連覇を達成して、万全の状態でアテネに臨みます。 そしてアテネオリンピックでは、82m91を投げて2位に入ります。本来ならば銀メダルとなるところでしたが、室伏を上回る記録を出したハンガリーのアドリアン・アヌシュにドーピングが発覚し、室伏は繰り上りでの優勝となり、悲願の金メダルを獲得しました。

ちなみに日本人のハンマー投げの金メダルはアジア史上でも初の快挙となります。室伏はこの年、オリンピック以外にもすべての大会で優勝して7戦全勝でシーズンを終え、自身のキャリアハイとしました。

ロンドン五輪で復活の銅メダル奪取

アテネオリンピックで金メダリストになった後も室伏広治の活躍は続きました。翌05年の日本選手権で室伏は優勝し、父を超える11連覇を達成します。しかし、アテネオリンピック以降の室伏は出場試合が減少する傾向があり、4年後の北京オリンピックを目指すようになります。

そして迎えた北京オリンピック、室伏はこの大会でもメダルの有力選手として期待されましたが、記録は80m71で5位。しかし、他の選手のドーピングもあり、一時は3位に上がりますが、処分が棄却されたために5位で据え置きとなり、2大会連続のメダル獲得とはなりませんでした。

その後もオリンピックへの飽くなき挑戦は続き、2010年に行われたIAAFワールドチャレンジミーティングスでハンマースローチャレンジの初代チャンピオンに輝き、11年には36歳にして世界選手権で初の金メダルを奪取。オリンピック、世界選手権の2冠を達成した最初の日本人選手となりました。

自身4度目の出場となった12年のロンドンオリンピック、室伏はこの大会で78m71で3位に食い込み、銅メダルを獲得。北京オリンピックの無念を晴らし、復活をアピールします。

しかし、これが室伏にとって国際大会での最後の輝きとなりました。14年に日本選手権で前人未到の20連覇を成し遂げたのを最後に室伏は衰えが目立つようになり、16年についに現役を引退。ハンマー界のスーパースターが現役生活にピリオドを打ちました。

現在は東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会のスポーツディレクター、東京医科歯科大学スポーツサイエンスセンター長などの役職を持っています。
日本の投擲界で多くの戦績を残し、日本人初の快挙を何度も成し遂げてきた室伏は、引退後もスポーツの世界で活躍をしています。


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