名前福田健二(フクダケンジ)
生年月日1977年10月21日
日本
出身愛媛県新居浜市
プロフィール新居浜市の泉川サッカー・スクールに入り、サッカーを始める。

小学5年の時袖ケ浦市の蔵波小に転校、FWのレギュラーで活躍し、清水カップで全国3位。中学進学後市川市のカネヅカFCに入団。3年の時全日本クラブジュニアユース選手権3位。

習志野高2年の時千葉県選抜のレギュラーとして国体に出場。同年U-18選抜にも選ばれ、英国遠征で、サンダーランド国際トーナメントに出場したほか、1995年同選抜のオセアニア遠征では、唯一全4試合にスタメン出場し、5得点をあげるなど活躍。

3年生の時関東大会で準優勝し、大会最多の6得点をマーク。ユース代表に選ばれインターハイ出場も決めたが、練習試合で右足首を骨折。

1996年名古屋グランパスエイトに入団。同年3月対ベルマーレ戦でJリーグデビュー。1997年英国に短期留学し、アーセナル監督、アーセン・ベンゲルの下で修業。1999年U-22代表。2001年8月FC東京に移籍。同年日本代表候補。

2003年ベガルタ仙台へ移籍するも、半年でパラグアイ・グアラニーへのレンタル移籍が決まる。その後、2005年パチューカ、イラプアト(ともにメキシコ)、さらにはカステリョン、ヌマンシア、ラス・パルマス(いずれもスペイン)、さらにはイオニコス(ギリシャ)と南米、欧州を渡り歩いて、FWとして結果を残す。

2010年からは、故郷愛媛FCと3年契約を交わし移籍。初年度から主将を務める。2012年愛媛を退団し、横浜FC香港に移籍。4シーズンをFWとして戦い、2015-16シーズンを最後に現役引退。

以後指導者手の転身を発表。習志野高卒、178センチ、69キロ

母親の死去、貧困と戦いながらも、サッカーで名を馳せる

福田健二は、愛媛県で生まれ、5歳年上の兄の影響で小学2年生からサッカーを始めます。両親の離婚で母子家庭に育っていましたが、5年生当時、母親が自殺したため、父に引き取られて千葉へ移り住みました。その後も、蔵波FC、市川カネヅカSCに入ってサッカーを続けましたが、貧困生活を理由に満足にサッカーを続けられません。それでも実力は突出していたため、当時の同僚だった廣山望らの計らいで、中学2年時に全日本クラブユースへ出場しました。すると、およそ1年ぶりの出場にもかかわらずゴールを量産します。そのまま勝ちあがり、チームを全国3位に導きました。

そしてブラジルから来た交換留学生に影響を受け、当時から海外サッカーを意識するようになります。1993年、習志野高校に進学して、再び廣山とチームメイトとなると、自身は強豪チームにもかかわらず1年生からレギュラーに抜擢されました。当時、開幕したJリーグを海外へ行くための登竜門として設定します。2年時には高校総体で優勝、またその後も国際大会にも出場するなど一躍有名となって高校生活を終えました。

名古屋、U-20日本代表でエースとなるも活躍は続かず低迷

1996年、名将アーセン・ベンゲルが監督を務める名古屋グランパスエイトに入団しました。チームは前年、天皇杯を制しておりJリーグ開幕前のゼロックスカップを戦いましたが、ルーキー福田健二はいきなり同試合で先発に抜擢されます。するとこの大胆起用に、1得点1アシストと見事な結果を出し2-0で快勝しました。

1997年、名古屋監督を退任してイングランド・アーセナル監督に就任したベンゲルの下で、短期留学を経験すると、同年のワールドユース選手権にもレギュラーFWとして出場し日本をベスト8に導きます。翌年には、名古屋でストイコビッチと強力2トップを組み、リーグ戦チームトップの16得点とエースとなりました。シドニー五輪世代のホープとして大きく期待されましたが、その後名古屋でのレギュラー争いに敗れ、シドニーのメンバーからも外れます。Jリーグでの活躍で海外移籍をもくろんでいましたが、移籍金などから思い通りとはならず、2001年シーズン途中に名古屋を退団しました。

夢の海外移籍が実現し、パラグアイで得点力を見せて活躍

2001年8月、福田健二はFC東京へ移籍します。一時は、日本A代表候補にも名を連ねましたが、FC東京でレギュラーの座をつかめない日々が続きました。2003年途中にベガルタ仙台へ完全移籍しましたが、先発出場の機会は訪れません。伸び悩みの時期が続き、希望する海外プレーはまったく現実味を帯びないため、サッカーを辞めようとすら思っていました。

そんな胸のうちを、当時ポルトガルでプレーしていた同級生・廣山望に打ち明けたところ、活路が開きます。代理人を紹介されたことがきっかけとなり、パラグアイ・グアラニーへの半年間のレンタル移籍が決まりました。突如、夢だった海外プレーが実現し、鬱憤を晴らすかのようにピッチを走ります。激しいフィジカルも克服して、チームでゴールを量産し、さらに契約延長も勝ち取りました。ひたむきなプレーはサポーターからも愛される存在となり36試合で10ゴールと結果を残します。リベルタドーレス杯で得点した決定力から、代表入りさえ打診されたほどでした。

南米、欧州と4カ国を渡り歩き、いずれもFWとして結果を残す

その後も、ベガルタ仙台からのレンタル移籍という立場ながら、福田健二は海外チームを渡り歩きます。2005年は、メキシコ2チーム(CFパチューカ、イラプアトFC)の両チームで二桁ゴールを記録しました。その得点力がきっかけとなり、スペイン・リーガエスパニューラへの道も開けます。スペイン語は片言しか話せませんでしたが、積極的にコミュニケーションに加わり、独学で修得していきます。スペインで3シーズンを過ごし、ヌマンシア所属時は、10得点でチーム得点王を奪うなど、チームのエースとして活躍しました。

紆余曲折あってスペイン・UDラス・パルマスへ完全移籍となり、2008年は自身4カ国目となるギリシャへ渡ります。イオニコスでは、怪我による離脱をしながらも24試合で9得点とFWとして及第点の成績を残しましたが、給与未払いにより同年で契約を解除しました。

故郷の愛媛FCで3年過ごし、横浜FC香港で現役引退

2009年からは、6年ぶりに日本へ復帰して、故郷・愛媛県のクラブ愛媛FCと契約します。イヴィッツァ・バルバリッチ監督とは、培ったスペイン語で通訳を介せずに対話しました。また、サッカー人生で初となる主将も任されると、初年度にチーム最多の7ゴールと海外経験を存分に披露します。その後、出場機会は減りましたが、若手選手からは尊敬され、当時横浜Fマリノスからレンタル移籍していた齋藤学にも大きな影響を与えました。

2012年、契約満了で愛媛を退団すると、2013年から横浜FC香港でプレーしました。シーズン途中からの契約で、8試合のみの出場でしたが、大きな仕事をやってのけます。最終節、敗れれば降格が決まるという後半ロスタイム、起死回生の同点ゴールをヘディングで押し込み、クラブの1部残留ならびに自身の契約延長を勝ち取りました。

ベテランながらチームの主役となった福田は、そこから3シーズンの間FWとして活躍し、ハットトリックも達成しました。そして2015-16シーズン終了とともに長い現役生活にピリオドを打ちます。福田は、サポーター投票1位に贈られる「最受球迷歡迎球星」を手にしてスパイクを脱ぎました。今後は、指導者に転身して、6カ国で経験してきたものを後進の育成に生かします。


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