名前門倉健(カドクラケン)
生年月日1973年7月29日
日本
出身埼玉県
プロフィール埼玉・聖望学園では3年春の関東大会で準優勝。大学ではリーグ通算11勝0敗、全日本大学選手権準優勝。日米野球、福岡ユニバ代表。

1995年秋ドラフト2位で中日入団、1996年7月一軍昇格、28日の対ヤクルト戦でプロ初勝利。8月の対巨人戦に初先発、初完封の快挙。1999年シーズン終了後、近鉄に移籍。先発として期待されるも、4年間で一度も二桁勝利できず、2003年オフ、横浜へトレード移籍。

2004年は一時クローザーを務める。2005年からは再び先発投手として起用され、2年連続二桁勝利に、最多奪三振(2005年)のタイトルを奪取。2006年オフ、FA権を行使して巨人へ移籍。2007年、開幕ローテーション投手を務めるも1勝に終わる。2008年は0勝に終わり、同年オフ戦力外通告。

2009年シカゴ・カブスとマイナー契約も開幕直後に戦力外通告。同年4月、韓国球界SKワイバーンズと契約。2010年には14勝を挙げて優勝に貢献し、アジアシリーズでは千葉ロッテ戦で先発。2011年三星ライオンズでプレー。2012年、クラブチーム伊達聖ケ丘病院野球部に入団。同年現役引退。2013年、三星ライオンズコーチ就任(2015年退任)。

NPB通算成績は302試合、76勝82敗10S、2ホールド、防御率4.36、1,276回0/3、1,146奪三振。最多奪三振1回。
KBO通算成績は74試合、27勝17敗0S、1ホールド、防御率4.03、366回0/3、303奪三振。

聖望学園卒、東北福祉大学卒、193センチ、90キロ。右投右打

高身長から投げ下ろす投球で、高校、大学とエースに就任

埼玉県入間市に生まれた門倉健は、成長著しく、藤沢中学校時代に早くも身長190cmを超えます。聖望学園高校に進学して野球部に入ると、一躍エースとして名乗りをあげました。高身長から投げ下ろす本格派右腕は、埼玉県有数の投手に成長します。3年生になるとさらに投手としてまとまり、春季県大会、関東大会でいずれも準優勝をあげるほど実力をつけました。そして甲子園ラストチャンスを狙って夏の県大会に挑みます。順調に決勝戦まで勝ち進み、春の大会でともに本塁打を浴びて敗れた春日部共栄に対して3度目の挑戦をしましたが、またしてもその壁を越えられませんでした。

高校卒業後は、東北の雄・東北福祉大学へ進学します。ここでも高身長をいかして3年からエースとなり、4年時には全日本大学野球選手権大会で準優勝の立役者となりました。ドラフト会議が近づき、当然のようにプロスカウトの注目を集めます。そして、中日ドラゴンズを逆指名し、2位での入団が決まりました。

中日入団後にフォークを覚え、先発として2年連続二桁勝利を達成

ルーキーイヤーは、オールスター明けに初めて一軍に昇格します。そして、当時の正捕手・中村武志から勧められてフォークを試投したところ、まさかの落差でボールが落ち、一気に門倉健のウイニングショットとなりました。リリーフで登板して初勝利を得ると、巨人戦で初先発する機会を得ます。相手は平成の大エース・斎藤雅樹という圧倒的不利な状況でしたが、まさかの初完封という快挙を達成しました。同年は後半戦だけの活躍でしたが7勝をあげてチームの戦力となりました。翌年からは先発ローテーション投手に定着して2年連続二桁勝利を達成しました。3年で27勝をあげるも24敗と敗戦数も多く貯金を作れません。1999年はわずか2勝に終わり、同年オフに近鉄バファローズへのトレード移籍が決まりました。

近鉄では4シーズン、先発として結果を残せず2度目のトレード

近鉄は「いてまえ打線」が強力でしたが投手陣に不安があり、門倉健は先発の一角として期待されます。しかし1年目は7勝9敗と負け越し、さらにチームは最下位に沈みました。そして移籍2年目の2001年、チームの浮沈をかけて開幕投手に抜擢されます。ところが、まさかの2回6失点と結果を残せませんでした。同年は防御率6.49と大幅に数字を落としましたが、打線の援護があって8勝5敗と勝ち越します。さらにチームは、勢いに乗って前年の最下位から、一気にリーグ優勝を成し遂げました。

翌年からも貴重な先発投手として期待されましたが、2002年は0勝4敗、2003年も6勝4敗と期待に応えられません。結局、近鉄在籍4シーズンでは、一度も規定投球回数をクリアできずオフに再びのトレードで、横浜ベイスターズへの移籍となりました。

横浜では復活し、2年連続二桁勝利に最多奪三振タイトル奪取

移籍1年目、先発として好投しても結果を残せず、後半からは不調の佐々木主浩に代わってクローザーに抜擢されます。同年は、4勝8敗10セーブと中途半端なシーズンに終わりました。しかし移籍2年目は先発として、シーズンを通してローテーションを守ります。防御率もリーグ4位の3.33と安定し、11勝に最多奪三振とエース三浦大輔とともに軸として働きました。さらに翌年も、チーム最多の10勝と2年連続二桁勝利を達成します。FA権を取得していた門倉は、チームと交渉しましたが決裂し、FA宣言しての移籍を決意しました。

FA移籍した巨人では、まったく戦力になれず2年で解雇通告

メジャー球団とも具体的な交渉をする中、門倉健は巨人への移籍を決断します。2年連続二桁勝利の実績で常勝軍団でも開幕ローテーションに抜擢されました。しかし、なかなか勝利投手につながらず、自身も調子を落としていきます。結局同年は1勝5敗、防御率5.97と散々な成績で終わりました。勝負の2年目も0勝2敗と不振が続き、戦力外通告を受けました。

韓国球界へチャレンジし、エースとして東京ドームに凱旋登板

現役続行にこだわる門倉健は、シカゴ・カブスのトライアウトを受けてマイナー契約を締結します。しかし、開幕前に戦力外となると、そのわずか12日後に韓国SKワイバーンズとの契約が発表されました。初の韓国球界でのプレーで、防御率は5.00という数字ながら8勝4敗と活躍して契約延長を勝ち取ります。

チームに慣れた2年目は、開幕から7連勝と好調を維持して、14勝7敗とチームの優勝に貢献します。秋のアジアシリーズでは日本に凱旋帰国し、千葉ロッテマリーンズとの試合では先発を務めました。しかし、3回持たずにKOされて試合にも敗れます。翌年は三星ライオンズの一員としてプレーし、日韓通算100勝を達成しましたが同年限りで退団しました。

その後、再び日本球界復帰を目指し、楽天、日本ハムのテストを受験しますがともに不合格となります。2012年4月、母校・東北福祉大学の同級生が監督を務めるクラブチーム・伊達聖ケ丘病院野球部に入団して、都市対抗を目指します。チームは予選で敗退しましたが、自身はJR北海道の補強選手として都市対抗出場を果たしました。

現役引退後、韓国三星コーチとしてバンデンハークを指導

2012年末、プロ野球12球団トライアウトに挑戦しましたが、獲得球団は無くついに現役引退を表明します。すると指導者に転身して、かつて在籍していた韓国・三星ライオンズの投手コーチに就任しました。当時、在籍していたリック・バンデンハーク(現ソフトバンクホークス)に指導を施し、一気に才能を開花させるなど手腕を発揮します。2015年まで同球団でコーチを務め、2016年からは野球解説者を務めています。

VICTORYアスリート名鑑

著者プロフィール VICTORYアスリート名鑑

VICTORYアスリート名鑑編集部のアカウントです。