今井裕介について
名前 | 今井裕介 |
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生年月日 | 1977年9月20日 |
国 | 日本 |
出身 | 長野県南佐久郡 |
プロフィール | 小学3年でスケートを始め、6年でクラブ入り、ショートトラックに取り組む。ショートトラックとアウトドアの両方で活躍。中学2年でアウトドア全国中学選手権2種目制覇。佐久長聖高では平成7年浅間選抜競技会1500メートル3位、ショート500メートルで日本新を記録、全国高校選手権の500、1500を制した。
8年全国高校選手権1500メートルで1分56秒18の大会新記録、1000メートルで1分14秒98の高校新記録をマーク、2年連続で2種目優勝を果たす。同年アジア大会1000メートルで1分14秒27の日本高校新記録で金メダル、1500メートルとあわせて2冠を達成。同年山梨学院大学に進学。 9年全日本スプリント1000メートルで優勝。 10年W杯インスブルック大会1000メートルで初の6位入賞。同年長野五輪1000メートル11位、1500メートル16位。同年12月全日本選手権では500メートル、1500メートルでそれぞれ1位。12年メッツに入社。 13年3月世界距離別選手権1500メートルで1分46秒94の日本新をマークし5位に入る。同月カルガリーフィナーレ大会1500メートルで1分45秒49の日本新記録をマーク。174センチ、73キロ。 |
高校時代はショートトラックで活躍
今井裕介が生まれ育ったのは長野県南佐久郡。北国ほどではないにせよ雪がよく降る街だったためにウインタースポーツが盛んなことで知られていました。そのため今井も小さいころからウインタースポーツに明け暮れました。中でも今井が最初に始めたスポーツは小学3年生から始めたスケート。バランス感覚に優れていた今井はすぐに上達し、6年生になるころには地元のクラブチームに所属。よりスケートの技術を伸ばしていきました。
この当時の今井が行っていたのはショートトラック。スピードスケートのようにタイムで競うのではなく、あくまで着順ベースで判断されるスポーツですが、今井のコーナーの際のコース取りの巧みさはこのショートトラックで培われたといっても過言ではないでしょう。このスポーツ自体、今井には適していたのか、高校3年生になった95年、今井は浅間選抜競技会の1500m戦に出場して3位に入ったのを皮切りにショート500mで日本新記録を達成する快挙を成し遂げました。さらに全国高校選手権の500mと1500mを制して二冠制覇を成し遂げます。
高校生最後のシーズンとなった96年の全国高校選手権では1500mで1分56秒18の大会新記録を樹立。返す刀で1000mでは1分14秒98の高校新記録をマークして2年連続での二冠達成。さらにこの年に出場したアジア大会の1000mで1分14秒27の日本の高校生の新記録を達成して金メダル、1500mとあわせてまたも二冠を獲得しました。
山梨学院大学でスピードスケートへ転向
高校時代に圧倒的な成績を残した今井裕介。大学進学後も当然のようにスケートを続けられる環境を目指し、駅伝をはじめとしたスポーツが盛んな山梨学院大学へ96年春に進学。しかしここで今井は壁にぶち当たり、その状況を打破すべく今井はショートトラックの選手からスピードスケートの選手へと転向。すると翌97年にはスピードスケートの選手として全日本スプリント1000m戦に出場して優勝する快挙を成し遂げます。
さらに今井の活躍は留まるところを知らず、98年にはワールドカップ・インスブルック大会では1000mに出場し、自身初となる6位入賞を達成。この活躍が認められ、この年に行われた長野オリンピックへと出場。長野県出身の今井からしたら故郷に錦を飾る結果になりました。
あわよくばメダルも…と期待されましたが、今井の長野オリンピックでの成績は1000mで11位、1500mで16位とあまり振るいませんでした。この悔しさを晴らすべく、4年後の02年に行われるソルトレイクシティオリンピックを目指すとともに、今までの練習にもより一層の力が入るようになりました。
そうして迎えた99年の全日本選手権。今井は500m、1000mにそれぞれ出場してなんとともに優勝。その実力の高さを誇示します。そして00年に大学を卒業するとメッツに入社。01年には3月に行われた世界距離別選手権の1500mで1分46秒94の日本新をマークし5位に入り、さらにカルガリーフィナーレ大会の1500mで1分45秒49の日本新記録の快挙を成し遂げます。ちなみにこのタイムは世界でも歴代2位に該当する衝撃のタイムとして知られています。
チームディスポルテ設立。アスリートとスポンサーの橋渡しに
しかし、今井裕介はこの年から苦難のシーズンを迎えることになります。消して自身のスランプや故障などではなく、その原因はなんと会社。所属していたメッツのスケート部が廃部になったことで今井は行き場を失い、スケートの練習が満足にできなくなってしまいました。
これを機に今井は兼ねてから温めていた「企業スポーツからの脱却」をテーマに活動。選手自らがマネジメントを手掛ける会社、「チームディスポルテ」を設立。選手がスポンサーと直接契約することでより協議に集中する狙いがありましたが、当時はスポンサー難に見舞われ、毎回のように資金難に陥りました。しかし、今井らの地道な活動もあってかやがてスポンサーが付くようになり、Nikonや大相撲高砂部屋などの大手スポンサーを募るまでになりました。
その中で出場した02年のソルトレイクシティオリンピック。長野オリンピックよりもさらに上を目指した今井でしたが、結果は1000m15位、1500m34位に終わり、世界との壁を感じざるを得ない結果に終わりました。
しかし、その後も今井の滑りは衰えることなく、04-05シーズンにはワールドカップ・長野大会で1000m2位に入る好成績を残し、総合ランキングでは7位入り。さらに世界長距離選手権で1000mに出場すると9位に入るなど、その活躍の幅を広げていきました。
そうして迎えた06年、今井は自身最後の大舞台としてトリノオリンピックに出場。結果は1000m20位、1500m34位と今一つで、稍消化不良での現役引退に。その会見時に「記憶にも記録にも残らない選手」と自身を評しましたが、日本の中距離スケーターの代表的な選手として知られています。
“陸のショートトラック”競輪に挑戦
現役を引退した後、今井裕介が選んだ道はなんとスケートではなく、競輪の世界。高校時代に行っていたショートトラックは「氷上の競輪」とも称されるスポーツで今井のプレースタイルに合っているとも思われました。実際に06年に入学した今井は07年には卒業してプロ入り。この間の成績は1位と言う素晴らしいものでした。
元スケーターの競輪選手は意外と多く、今井は同じスピードスケート出身の武田豊樹や牛山貴広らがいる茨城を拠点に活動。堅実な走りはファンの注目を集めましたが、ついに現役時代にGⅠへの出場を果たすことはありませんでした。その後15年になると今井は突如として引退。アスリートとしてのキャリアに終止符を打ちました。