名前 | 黒木知宏(クロキトモヒロ) |
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生年月日 | 1973年12月13日 |
国 | 日本 |
出身 | 宮崎県日向市 |
プロフィール | 小学生からソフトボールを始め、特待生で延岡学園に入学。1991年夏、甲子園に出場も、初戦敗退。新王子製紙春日井に進むと、1994年は本田技研鈴鹿の補強選手として都市対抗優勝。
1994年ドラフト2位(逆指名)でロッテに入団。1998年最高勝率、最多勝利の2冠を獲得。同年球団最年少の1億円プレーヤーとなる。1999年同球団の日本人選手最高額となる1億8000万円で契約更改。2000年プロ選手から初めてシドニー五輪代表となり4位。2001年11勝を挙げ、5年連続2ケタ勝利を記録。 2001年、右肩故障を発症。手術を回避し、3年という長いリハビリ期間を過ごす。2004年一軍に復活して1勝。2005年は、右肘故障も、終盤に復活してプレーオフ進出を決める先発勝利。同年はチームが2位からの日本一を達成し、アジアシリーズでは先発を務める。 しかし右肩痛は回復せず、2007年オフ戦力外通告を受け引退。その後野球解説者を務める。2013年からは日本ハムの一軍投手コーチに就任。 通算成績は199試合、76勝68敗1S、防御率3.43、1,208回2/3、879奪三振。最多勝1回、最高勝率1回。延岡学園高卒、178センチ、74キロ、右投右打 |
都市対抗優勝に貢献し、千葉ロッテマリーンズを逆指名して入団
黒木知宏は、宮崎県日向市に生まれ活発な幼少時代を過ごします。2歳年上の兄に連れられて草野球に出会うと、小学校時代はソフトボールの小年団で過ごしました。中学では野球とボディビルに打ち込むと、エースではなかったものの延岡学園へ特待生としての入学が決まります。そして、1991年、高校3年夏にはチームのエースに就任し、見事甲子園出場を達成しました。しかし、甲子園初戦の四日市工戦では初回、3回と失点します。一時は逆転しましたが、2番手投手も打ち込まれて悔しい初戦敗退となりました。
高校卒業後は、新王子製紙春日井(現王子製紙)で社会人として野球を続けます。すると2年目には早くもチームの中心的存在になりました。1994年には、本田技研鈴鹿の補強選手として都市対抗野球大会に出場し、アトランタ五輪代表の森昌彦らとともに優勝に貢献します。こうした活躍が千葉ロッテマリーンズスカウトの目に留まり、同年のドラフト会議では逆指名2位での入団が決まりました。
2年目からローテーション投手となり、3年目に初めて二桁勝利
1995年の千葉ロッテ投手陣は、伊良部秀輝、ヒルマン、小宮山悟と先発陣が充実しており、バレンタイン監督の下、10年ぶりのAクラス2位と大躍進を果たします。ルーキー黒木知宏も、先発、リリーフの両方を経験し、初完封を含む5勝と即戦力として活躍しました。2年目には初めて規定投球回数に到達し8勝と、ローテーション投手の一角となります。
3年目には、チームの先発柱として、スタミナを武器にリーグ最多の240回2/3を投げきり初の二桁12勝をマークしました。同年はリーグワーストの15敗を喫しましたが、リーグ6位の防御率2.99で2点台を達成します。同2.49で最優秀防御率のタイトルを獲った小宮山とともにダブルエースとしてチームを支えました。
ワースト連敗記録をストップできずも、最多勝と最高勝率で2冠
1998年、6月12日に黒木知宏が勝利を挙げた翌日から、チームは悪夢の連敗がスタートします。負の連鎖が続きで連敗は16まで伸び、七夕の日、連敗ストップを期待されて黒木が先発マウンドに上がりました。3-1とリードして9回に突入し、2死までたどり着きます。しかし、そこからまさかの同点2ランを浴びました。悔し涙でマウンドを降り、その後延長でも破れ17連敗となります。極度の疲労のため、右肩と右肘に痙攣を起こし、帰りのバスには担ぎ込まれるほどでした。
チームの連敗はプロ野球ワースト記録の18連敗となり、同年のチームはパ・リーグ最下位に沈みます。しかし黒木は、その後大きく立ち直り獅子奮迅の活躍を見せます。リーグ最多の28先発登板で、13勝9敗、防御率3.29(リーグ2位)の成績で初の最多勝、最高勝率の2冠に輝きました。
5年連続二桁勝利を達成しチームを支え、シドニー五輪にも出場
1995年の2位以降、千葉ロッテは再び低迷しBクラス常連となります。そんな中でも、黒木知宏はチームのエースとして、5年連続二桁勝利を達成しました。闘志を前面に押し出す強気のピッチングスタイルは多くのファンを魅了します。当初ついた愛称ジョージから、自らジョニーを名乗ると、ジョニー黒木としてロッテファンのみならず、プロ野球ファンから愛されました。
2000年から怪我が絶えないようになりましたが、同年のシドニー五輪には日本代表として出場します。準決勝のキューバ戦に先発しましたが、同試合に敗れると、チームは3位決定戦でも敗れ、無念のメダル無しに終わりました。
右肩故障も、3年のリハビリを経て復活しチームの日本一に貢献
2001年、11勝をマークしましたが、右肩痛を発症させ後半戦を棒に振ります。当初の診断は比較的軽いものでしたが、実際は肩腱板の内側靭帯を数本完全損傷する重傷だったことが判明しました。手術ではなく自然治癒を選択したため、辛く長いリハビリがスタートします。一時は、肩に負担がかからないサイドスローに近いフォーム改造も試みました。こうして、3年という長い年月を費やし、2004年ようやく一軍マウンドに復帰します。同年は、わずか1勝に終わりましたが、7試合先発としてマウンドにあがりました。
2005年、完全復活が期待されましたが、今度は右肘を故障し再び一軍から姿を消します。しかしチームは、前年から復帰したバレンタイン監督によって再び快進撃を起こしていました。マリンガン打線と二桁勝利達成者6人を擁し、交流戦優勝そして10年ぶりのAクラスが目の前に迫ります。そんな大盛り上がりの最中、黒木知宏が先発マウンドに立ちました。見事、本拠地で復活勝利投手となり、チームはプレーオフ進出を確定させます。その後、黒木の登板はありませんでしたが、プレーオフ、日本シリーズを制し、シーズン2位からの日本一という下克上を達成しました。続く第1回アジアシリーズでは、第3戦の先発マウンドを託されます。3回で降板しましたが自責点0に抑え、チームのシリーズ制覇に貢献しました。
怪我からの完全復活は実現できず、現役引退して指導者に転身
2006年から、完全復活を期してマウンドに立ちましたが、かつての輝きは失われたままでした。同年は5試合の登板に終わり、2007年は開幕一軍こそ実現したものの、わずか1試合の登板に終わります。結局、右肩痛は回復せずに、同年オフ戦力外通告を受けます。まだ現役続行を望む黒木知宏でしたが、他球団からのオファーはなく、33歳、通算76勝で現役引退を決意しました。
引退後は、野球解説者を務める傍ら、「ジョニープロジェクト」を立ち上げて、野球の更なる発展、普及活動に力を入れています。2013年からは、北海道日本ハムファイターズの一軍投手コーチとして現場復帰をしています。