名前初芝清(ハツシバキヨシ)
生年月日1967年2月26日
日本
出身東京都豊島区
プロフィール小学4年生から野球を始め、二松學舍大付属高校時代は2年生からエースを務める。3年春には東東京大会決勝で敗れて甲子園出場経験なし。高校通算30本塁打。

その後、社会人野球の東芝府中から、1989年ドラフト4位でロッテ入団。1990年8月18日対オリックス戦で2ランを3本放つ。1995年イチロー(オリックス)、田中幸雄(日ハム)と共に打点王を獲得。球団史上野手では初の1億円プレーヤーに。1998年6月対オリックス戦で1000試合出場を達成。

1999年シドニー五輪予選代表。2003年、代打として7打席連続安打の日本記録達成。2005年、チームが31年ぶりに日本一達成を見届けて引退。2007年から、かずさマジックのバッティングコーチに就任(~2010年)。2013年からは社会人チーム・セガサミー監督に就任。

通算成績は1,732試合、5,762打数1,525安打、232本塁打、879打点、11盗塁、打率.265。打点王1回、ベストナイン1回。二松学舎大附属高卒、右投右打。181センチ、95キロ

東芝府中で打者として成長し、ロッテドラフト4位で指名される

初芝清は、東京都豊島区で生まれ、幼少の頃からボーイスカウトに入っていました。小学4年時、家庭の事情で埼玉県坂戸に転居すると、近くにボーイスカウトがなかったため、昔から好きだった野球を始めます。当時から身体が大きかったので、捕手に指名されましたが、5年生から投手に転向しました。その後、二松學舍大付属高校へ進学すると、2年生でチームのエースに就任します。3年夏には3番投手として東東京都大会で決勝戦まで駒を進めましたが準優勝に終わり、甲子園出場はできませんでした。

母子家庭で育ったため、早くプロに入って親に楽をさせたいと思っていましたが、高卒時ドラフト指名はありません。しかし高校通算30本塁打の打棒が評価されて、東芝府中の練習に参加します。すると当時の監督がチームの選手枠を増やしてまでして初芝を迎え入れました。社会人時代は、打者に転向するとチームの都市対抗野球大会出場に貢献します。そして、1988年ドラフト会議で、ロッテオリオンズ(現在の千葉ロッテマリーンズ)から4位指名されて、プロ入団にこぎつけました。

2年目から三塁手レギュラーを奪うと、長打力で中軸を担う

社会人経由ということもあって、ルーキーイヤーから即戦力として一軍キャンプに抜擢されます。しかし、オープン戦で肩を脱臼して開幕一軍を逃してしまいました。それでも、復帰後のファーム初打席で本塁打を放ち、非凡なセンスを見せ付けます。すると5月には一軍に抜擢されて、攻守ともに経験を積んでいきました。

2年目には、前年までのレギュラー水上善雄が移籍したため、開幕スタメン三塁手に抜擢されます。すると、ともにチーム3位の18本塁打、67打点とパワー見せ付けて、一気にレギュラーを奪いました。翌1991年は、87試合出場と規定打席をクリアできませんでしたが、1992年からは不動の三塁手として君臨します。打率が低いシーズンが続いていましたが、1994年には、打率.290で初めてリーグトップ10に入りし、17本塁打、75打点と、低迷を続けるチームの中軸として働きました。

唯一のチャンスを生かして打点王獲得、初の打率3割も達成

入団以来オールBクラスでしたが、1995年、バレンタイン監督が就任すると、一気にチーム状況が変わります。伊良部秀輝、小宮山悟、エリック・ヒルマンの先発強力三本柱、河本育之、成本年秀のダブルストッパーなど投手陣が安定し、ベテランで精神的支柱のフランコが4番に座ると中盤から上位争いに加わりました。

初芝清も5番打者に固定されると、好調な打線を牽引します。チームは10年ぶりに2位を確定させ、初芝自身も初のタイトル獲得の可能性が膨らみました。同年のパ・リーグは投高打低のシーズンとなり、打点王争いも80点前後という例年になく低い数字での争いとなります。残り1試合時点で79打点とリーグトップタイでしたが、同時に自身初の打率3割も目指していました。最終戦3打席ノーヒットで迎えた最終の4打席目、25号本塁打を叩き込み、打率3割ジャスト、そして80打点としてシーズンを終えます。結局、イチロー、田中幸雄の3人が80打点まで積み上げて打点王を分け合いましたが、初芝にとっては最初で最後のタイトルでした。

チームの中軸として活躍し、シドニー五輪予選は4番で出場

その後、再びチームは低迷期に入りましたが、存在感を見せ続けます。1998年からは3年連続20本塁打、70打点以上と助っ人外国人に続く日本人大砲として機能しました。1999年には、シドニー五輪予選日本代表に選出されます。メンバーには、松中信彦、古田敦也もいましたが、彼らを抑えて4番打者として予選突破に貢献しました(本戦出場はなし)。

35歳を超えると、さすがに年齢から来る衰えを隠せなくなりなり、100試合出場が途絶えます。しかし2003年には、代打の切り札として、代打7打席連続安打のプロ野球記録を達成するなど、チームの精神的支柱として活躍しました。

現役生活最後の年に、自身初となるリーグ優勝&日本一を経験

ロッテ一筋としてプロ17年目の2005年、10年ぶりに優勝争いを演じます。復帰したバレンタイン監督が、日替わり打線を組み、福岡ソフトバンクホークスとの一騎打ちとなりました。逆転まで後一歩というところで勝ちきれませんでしたが、10年ぶりの2位を確保します。初芝清は、34試合出場の打率.220に終わり、同年限りでの引退を表明していました。

チーム生え抜きのベテランを男にするため、ロッテはプレーオフで快進撃を続けます。3位西武を連勝で下すと、首位通過のホークスに対しても2勝2敗で最終の第5戦を迎えました。1-2と劣勢の8回表、初芝が代打で登場すると、内野安打を放ちました。これが逆転の口火となり、現役生活の有終の美を飾る初めてのリーグ優勝を経験します。さらに続く日本シリーズでも、阪神を4連勝で下し、下克上での日本一を達成しました。

フランチャイズプレイヤーことミスターロッテは指導者に転身

現役生活17年全てをロッテで過ごした初芝清は、ミスターロッテ、ミスターマリーンズとも呼ばれています。引退後、解説者を務めていましたが、2007年からは、解説者生活を続けながら社会人野球チーム「かずさマジック」のバッティングコーチに就任しました。そして2010年、目標としていた都市対抗野球大会に導いたことで、退任します。2013年12月には、セガサミーの監督に就任しています。

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